第四部  のしてんてん系宇宙

                                  (思考と覚醒)

 

 

   

   

  はじめに ─────────────────────── 1

  第一章  思考の構造 ────────────────── 3

    第1節  考えるということ ────────────── 3

              1.私空間と公空間 ──────────── 3

              2.思考の歴史的意味 ─────────── 6

              3.初期宇宙の無 ───────────── 12

              4.現実感 ──────────────── 15

    第2節  思考地図 ────────────────── 21

              1.思考の分類 ────────────── 21

              2.理念思考 ─────────────── 22

              3.情念思考 ─────────────── 30

                    @非論理思考 ──────────── 33

                        (感情思考)─────────── 33

                        (神秘的思考・宗教的思考)──── 36

                        (感性的思考・芸術的思考)──── 39

                    A没論理思考 ──────────── 46

                        (直感・宇宙意識)──────── 46

              4.身体的思考 ────────────── 51

                        (習慣的思考)────────── 52

                        (身体思考)─────────── 57

                        (原感覚思考)────────── 61

                        (無的思考)─────────── 67

    第3節  思考の構造 ───────────────── 73

  第二章  覚醒 ───────────────────── 75

    第1節  意志 ──────────────────── 75

    第2節  感動・共感 ───────────────── 78

    最3節  気づき ─────────────────── 79

    第4節  精神 ──────────────────── 89

              1.無=宇宙意識 ───────────── 90

              2.自覚=精神 ────────────── 91

              3.無自覚=身体的 ──────────── 95

              4.覚醒=超越 ────────────── 95

  第三章  観照者 ─────────────────── 101

    第1節  五次元の思考と観照者 ─────────── 101

    第2節  観照者と社会 ─────────────── 105

             1.観照者と他者論 ──────────── 105

             2.変革────────────────── 110

のしてんてん系宇宙論を終えるにあたって───────── 115

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

  人間は考える。これは地球上にすむ生物の中で、人間が最も顕著に持つ属性と言わねばならない。

 他の生物に思考が認められないと言うのではない。しかしこれら生物たちの思考パターンは、概ね本能に直結したものとして理解される。すなわち即物的、実際的な生命活動そのものとしてとらえることが出来るのである。

 ところが人間の思考は、この本能をはるかに越えた領域にまで広げられて成り立っている。本能を実相としてとらえるならば、人間は実相のはるかかなたに、虚相なる思考空間を作り上げるのである。私はこれを私空間と呼んだ。(のしてんてん系宇宙第二部)

 それにしても、日常の些細なことから、重大な決心に至るまで、すべて私達の生活は考えるということを土台にして成り立っている。科学の進歩や文明の発達は言うまでもなく、日常生活そのものが考えるという能力の生み出す働きに外ならないのである。

  「考え」は、私達の中で日常的に動いている。それは形として取り出すことは出来ないが、確かに私達そのものとしてあるのである。しかも思考は、何もない所から様々なものを作り出して世界に新たな部分を付け加える。いいものも悪いものも、私達が知る事の出来るすべての世界は、思考によって作り上げられたと言っていいのである。

 しかもこの思考の作り出す世界は、「私」の中だけに存在し、他の誰のものでもない私自身の認識としてのみ意味をもつ。まさに私空間そのものを作り出すのである。

 一体このような思考はどのような仕組みによって成り立っているのであろうか。

  何もないところから様々な事を思いつき、考え続けるのはどうしてなのだろうか。そこにどんな意味が隠されているのだろか。また 何ゆえに突然ニュートンやアインシュタインのように複雑な論理を思いつくのだろう。

 どうして私というものがここにいて様々な事を考えているのだろう。しかも私はここ以外にはいない。この思考が私なのか、私が考えているのか、私はどうして他人ではなく私なのか。どうして私以外にはなり得ないのか。

 いずれにしてもこの問題は、人間存在の最も深い部分にかかわってくるだろう。

 人間にとって考えるということは何なのか。私はまずここに焦点を当てた議論を進めてみたい。そこから人間のさらに深い本質が見えて来れば幸いである。

 まずいくつかの面から思考について見、思考についてのとらえ方を確かなものにして、最後には考えが生み出される構造に迫ってみるつもりである。

 

          

 

 

   第一章 思考の構造

 

   第1節  考えるということ

 

   1.私空間と公空間

 

 私空間と公空間という概念は、本書第2部で詳しく取り上げたが、ここでもう一度簡単に取り上げておきたい。と言うのも、本論を進めるに当たっては私空間という考え方が大変重要になってくるからである。

 存在そのもの、あるがままにあるもの、これを真実と呼ぶ。

 私達人間はこの真実のただ中に存在している。私もまた真実と呼ばねばならない。

 ところが真実は、それをそのまま丸ごと認識することは出来ないのである。真実は無限であり、認識は有限である。ここに真実と認識の越えられない壁がある。

 認識には言葉が必要である。ところが真実に対して言葉を使えばとたんに真実は言葉に限定されてしまうだろう。

 あたかも言葉という小さな箱に無限の広がりをもつ真実を押し込めるようなもので、真実はとたんに窒息してしまうのだ。たとえ言葉の意味を広げようが、数を増やそうが、それが相変わらず箱であることに変わりはない。逆に真実が窒息しないように壁を取り払ってしまえば、それはもはや箱ではなくなる。すなわち言葉は失われるのである。

 このように私達は決して認識によって真実をつかむことは出来ない。これを具体的に見てみよう。

 「花が咲いている」という認識があるとしよう。私は春の野原にいて心地よい光の中でその花、タンポポを見ている。

 このとき私の認識はこの光景と、私の心の状態の総合的なまとまりの中にある。わたしの心が明るく希望に満ちているなら、この花は光り輝いて見えるだろうし、失望の中で見る花は息苦しいもののように咲いているかもしれない。

 しかしこの認識はどちらも真実ではない。真実はそこにただ咲いているありのままの姿の中にあって、それ以外にはないのである。そこから花だけを取り出してその花が実際に存在することはあり得ないのである。この花の存在は、土や空気や、光や水など、丸ごと自然の中にあるのであって、決してそこから切り離すことは出来ないのである。

 たとえ花を摘み取って自分のものに出来ると言ったとしても、それが真実から花だけを取り出したことにはならないだろう。その花が土の上にあろうが、手の中にあろうが、それが単体で存在しているということにはならないのである。なぜなら花は世界と一体になる事で育まれ、そこに存在するだけで周りの空間を圧し広げていると考えられるからである。つまり花は明らかにこの世界の影響の元にある。空間と花と、どちらか一方がかけても存在することの出来ない一体のものとして世界は現れてくるのだ。

 私が言う真実とは、まさにこの世界そのものを指している。世界を適当に分解したり、省略したりするのではなく、切り離せないものは切り離せないものとして、あるがままの世界を真実と呼ぶのである。

 この真実に対して、花が咲いているという認識は、まさに花の姿だけを切り取って他を背景に押しやることで初めて成り立つ。つまり私達は真実を区分して象徴的に物事をとらえる以外に世界をとらえる方法はないのだ。つまり認識によってとらえられた世界は、それ自体すでに真実ではない事になる。

  私はこの認識でとらえられた世界を私空間と呼んだ。そして私達が見ているこの世界は、すべて私空間にほかならないと主張するのである。

 私達は決して自分の作り出す私空間から出ることができないし、他人の私空間に入って行くこともできない。私達は完全に「私」の中で閉ざされた世界に生きているのである。

 一方、真実の世界を公空間と呼ぶ。

 公空間は私達がどうしても見ることのできない真実そのものの世界である。それはただ一つの存在であり、分割し区分することを許さないあるがままの世界である。言うまでもなく公空間は私達の一切をも取り込んだ全一的な存在としてあるのだ。

 何度も述べて来たように、私達はそれ自体を知ることができない。それを知ろうとすれば、認識によって切り取られた部分から公空間は死んでしまうしかないからである。

 もし公空間を理解しようとするならば、世界と一体となっている自分の存在を全一的な感覚でとらえるしかない。それが言わば人間と真実の唯一の接点だと考えられるのである。

 したがって人間は真実をとらえることが出来るのかという問題は、おそらく、とらえると言う次元の把握では解決しないだろう。真実はとらえるのではなく、ただその中に入って行くことでしか理解することの出来ない存在なのである。

 おそらく私達はもともとからこの公空間そのものとしての存在であったのだ。ところがそこに、思考の力で私空間という作りものの世界を生み出したのが人間なのである。このことはこれからの議論の中で重要な役割を果たすことになるだろう。

 私空間と公空間の概念をまずこのようにとらえ直した上で、考えるとはどういうことなのかその正体に迫って行くことにしよう。

 

 

    2.思考の歴史的意味

 

 考えるということは、行為であるとも言える。それは人間の内面を見たときに、私空間の中で思考の果たす役割が能動的であり、行為そのものと考えられるからである。

 無論、考えのすべてが外に出て実際の行為になるというのではない。しかしそれを外に向かって表現するか、しないかにかかわらず、思考は私空間に動きを与える。私空間の中で思考はまさに行為そのものなのである。その意味で思考は精神的行為と言えるだろう。 個性や人格、思想信条など、人間としての基本的な条件が思考の働きによって生み出される。

 無論人格が思考の方向を決定するという側面もあるが、それは二次的な現れにすぎない。一次的には社会の様々な機構の中で思考が働き、そこから人格が生み出されるのである。

 そこから自我が規定され、人生が決定される。人格に伴って、様々な義務感と目標が生み出され、人は社会の中で一つの位置を得る。ここに一人の人間が完成するのだ。人としての行為はすべてここから生み出されてくる訳である。

  思考は私達の心を様々に変動させる。欲求し、待望し、情愛と喜び、不安や恐れに、心を駆り立てて行くのである。まさに私空間は思考によって流動していると言えるだろう。

 「考える」と言うことはこのように私達の生活全般を支配しているのである。あるいはそれは心そのものと言えるかも知れない。いずれにしても思考は人間的行動の原点なのである。

 思考の能力がなければ人間は野生の動物に逆戻りするしかないだろう。この考え方から言えば、思考は突然人間に与えられたものではなく、生命の進化の結果として生み出されて来たと見ることが出来る。

 さらに言えば、人間のこの考えるという能力もまた宇宙の歴史の中に位置付けるべきなのである。

 のしてんてん系宇宙はスケールの系を柱とした世界だった。この世界観から見れば、宇宙は物と空間から成り立っているということがきわめて立体的に把握できたのであった。

 宇宙はただ一つの空間の中に、極大から極小に至る物質のかたまりが、浮かぶような形で存在している。大きな世界の中に小さな世界があり、その小さな世界の中には、さらに小さな世界が同時に広がっている。原子が集まって一つの天体を作っているように、一つの空間の中で小さなスケールの物たちは互いに引き合いより大きな1なる存在をつくろうとしている。さらに原子の中には小さなスケールの世界があって、そこに存在する粒子が互いに引き合い原子という1なる存在をつくっているのだ。

 のしてんてん系宇宙はこのような構造が無限に連なっているスケール軸をもつ世界として理解出来たのである。 この宇宙観の下に、私は、人間の身体もまた物の集合した1なる存在であり、最も複雑な、物の世界における最高の構造物だとしたのである。そして人間の意識は空間に属するエネルギーであると断定したのだった。

 人間は物としての在り方と、心としての存在という二元的な構造をもっているが、これは物と空間という宇宙の根源的な構造そのものに根差していたのである。

 この観点から、思考の生み出された歴史を振り返ってみると次のように示すことが出来る。

 宇宙が生まれたとき、そこにはただ空間だけが存在した。空間とはエネルギーの場として考えられるが、そこでのエネルギー分布は完全に均一で等質のものであっただろう。

 世界は物と空間から出来ていると言うのが私達の基本的な考え方であったが、等質なエネルギー空間には物を見いだすことが出来ないのである。このことは、のしてんてん系宇宙論から簡単に証明することが出来る。(証明は項を改めて示す)

 均質のエネルギーの場は無の空間としてそこにいささかの個性ももたなかった。ここで言う無とは、物が存在しないというのではなく、物はただスケールの系の無限のかなたにまで押しやられて私達には認識出来ないと言う意味である。

 認識不可能な微小スケールの彼方で、物と物は一様の関係しか持たず世界は無としか言いようのない存在の世界だったのである。

 そこでは重層的なスケールの世界もまだ当然生まれていなかったにちがいない。

 しかしそれよりも先の世界は、私達人間の論理では記述できない。つまり知り得ないということをまずとらえておかなければならないだろう。と言うのも、私達のこの作業も認識に外ならないからである。

 認識はすでに述べたように真実をそのままでとらえることはできない。真実は常に区分して認識されたその外側に逃れて行くのだ。 その意味で、宇宙の始まりは常に私達の認識の外にあると言えよう。その外側から力が与えられて均質なエネルギーの場が揺らぎ始めるのである。

 やがて均一であった物と物の関係が急激に動き出す。例えば隣同士の物の関係が他よりも強まれば、逆に疎遠になる物と物の関係も生まれてくるだろう。これらは同時に全宇宙的に現れる。宇宙空間に疎密が現れるのだ。様々な関係が生み出され物と物が反発したり結び付き合ったりするようになる。エネルギーの強い空間は縮まり、物と物を集合させ、一つの塊を作る。弱い空間は、集合した物体と物体との間にひろがり、私達が頭上に見る宇宙空間のように、物体を浮かべる空間となる。無から素粒子が生み出されたのだ。

 それはまた同時に、スケールの軸が生み出されたことをも意味する。のしてんてん系宇宙から見れば、素粒子や天体は単にスケールの場が違うだけで、いずれも物質の原初的存在であった。つまり素粒子が生み出されたと言うことは、その上位の場に天体が生み出されていることになり、さらにその天体を集積してより上位の場をつくると言うように、のしてんてん系宇宙の主軸であるスケールの系が出現するのである。

 このように私達には知り得ない神の一撃によって、ほとんど瞬間的に私達の宇宙が生み出されたのである。あるいはこの一撃によって、真実は認識の中に宇宙という形を表したとも言えるだろう。

 まず均質という無の世界に不均衡が生まれエネルギーが流れ始める。物は身動きのできない安定した初期宇宙から自由を得始める。これが物の単位と考えられる素粒子の発生だったのである。

 均質の安定が破られると、爆発的に宇宙の不安定化が進み、素粒子が生まれ、さらに素粒子同士が関係を結びあって原子を生み出すだろう。引き合う素粒子間の空間はエネルギーが高まり、際限無く縮まる。そこに一つの塊(1なる存在)を作り出す。これが原子である。

 宇宙空間に一つの塊が現れると、その1なる存在は更にその仲間と様々な関係を結び、より大きな空間に疎密の波動を生み出す。引き合い、離れあって更に高次の1なる存在を宇宙に現すのである。  原子は分子を生み出し、分子はさらに複雑な高分子を生み出す。無尽蔵にある組み合わせの中から高分子の結合が続き、やがてアミノ酸やDNAが合成されて行くだろう。生命と呼ばれる物質が生まれたのだ。

 安定が破られた宇宙はこのように、次々とより大きな1なる存在を作り続け、再び安定を得ようと動いて行く。このエネルギーこそ全世界を作り上げている源泉だと私は考えるのである。 

 この宇宙の運動は、生まれた生命に肉体を与え始める。生命はまさにこの宇宙の運動そのものの現れとして成長するのである。自らを安定させようとして新陳代謝を繰り返し、まさにこの不安定さを糧にしてより複雑な組織を作り上げて行くのだ。その極限に至って生命はついに頭脳を作る。頭脳から生まれるエネルギーは単なる物と物の関係から生み出されるものに止まらない。そこではエネルギー自体が相互に働き会って新たなエネルギーを作り出すようなことが行われる。頭脳という組織を作る物質の複雑な関係は思考エネルギーとして現れるだろう。この思考エネルギーは物質を伴わないエネルギー自体の変化や変容を促すようになるのである。「考える」とはまさにこのことを指している。

 最初1つのものになろうとする宇宙の運動は、物とエネルギーが不可分のものとして進められる。しかし物の集合が極限に来たとき、つまりこれ以上結合することが出来ない最高の形態(頭脳)に達したとき、それまで物と物の関係で決定付けられていたエネルギーが物との関係から解放され、独自で変化を達成するようになり、逆に物との関係を作り出すようになるのである。

 思考が私達の行為を決定しているのはまさにそのことを指しているのだ。

 生まれたばかりの思考は、まだ深く物との関係をもっていた。つまり肉体が思考を作り出していたと言ってもいいだろう。思考はまだ肉体の従属的な存在でしかなかった。

 しかしやがて思考は肉体を越え始める。それと同時に思考は肉体を支配しようと動き出すのである。これは自然を征服して来た人間の歴史と完全に重なるだろう。人間が自然を破壊するように、時として思考は自らの身体を苦しめ破滅に誘うことがあるのだ。

 現在の私達はまさにこの地点に立っていると言っていいであろう。思考の能力は飛躍的に発達したが、それをうまくコントロール出来ずに、心は不必要なエネルギーを作り出してしまう。つまり苦悩を生み出すのである。この苦悩は現在人においてより大きくなりつつあるようにも見える。

 しかし思考は苦悩のために生まれたものではない。思考もまた宇宙の進化の断片だとするなら、この宇宙にとって良しとするものがそこになければならないはずなのだ。

 いずれにしても宇宙的な視野から歴史を見るならば、考えるという人間の精神的行為は今ようやく始まったばかりだということが分かるだろう。つまり私達の思考はまだ十分に熟していないのだ。そのために人間は苦悩したり、他を傷つけたり、争い、自然の調和を破るのだと私は考えるのである。

 おそらくこの苦悩は、科学の進歩とそれに裏打ちされた社会に内在する矛盾として現れているのだ。事実私達は歴史とともに苦悩の量を増やしている。

 この苦悩すなわち矛盾が最大になったとき、人間は弁証法的進化を遂げるだろう。これは宇宙の進化に組み込まれた必然的な流れのように思えるのである。

 この流れの中で人間は、やがて思考が生み出された本当の理由を知るようになるだろう。そのとき私達は初めて正しい思考の使い方を学ぶ事になるのではないか、私はそう思うのである。

 そうなると思考は自然の中で見事に調和し、苦悩もまた消え去るであろう。人間は宇宙と完全に一体となり、真の楽園をそこに築くのである。そこには精神と科学の融合した全一的な人間社会が生み出されていると私は考えるのである。

 私達人間は、この楽園に向かう途上にあるのである。

 考えるという事をこのような視点から見つめていけば、必ずそこに思考の存在理由が明らかになるであろう。

 こうして見るならば、思考が人間の特権であり、完全なものだという考えは妄想だと分かってくるだろう。思考は人間にとって、確かで絶対的なものだということにはならない。にもかかわらず私たち人間は思考の作り出す世界を全てだと思い込み、苦悩を引き出し、争い事を引き起こすのである。

 そもそもこの宇宙的視野で人間を見るならば、互いに殺し会い傷つけ会わなければならない必然性はどこにもない。そうだとするならば、明らかに現代社会の抱えている問題は、思考そのもののとらえ方に誤りがあると言わざるをえないのである。

 私は、この「考える」という問題を考察して行く中で、その正しい意味と人間にとっての真の役割を明らかにしていくだろう。そうすることで人間はやがて新たな存在次元に移ることが出来ると信じるのである。

 

 

                  3.初期宇宙の無

 

  私は先に、エネルギーが均一で等質な空間こそ初期宇宙であり、
のしてんてん系宇宙論からすれば、容易にこの初期宇宙
が無であったことを証明できると書いた。

 この無は、物がないのではない。ただ物が均質に広がっているためにスケールの各場に1なる存在を生み出さないのだ。

そのために物は際限無く小さなスケールに先送りされて行き、結局は何も見えない真空だけの宇宙、すなわち無が広がるばかりなのである。

 さて少し脇道にそれるが、その証明を試みておこう。

 のしてんてん系宇宙は無限にスケールの場が連なった世界として認識される。このとき、スケールの各場に現れる物は、それよりも下位のスケールの場の物が集合して出来た、いわゆる「1なる存在」として認識されるのであった。

  一人の人間は、素粒子が無数に集合して組み立てられた1なる存在なのである。あるいは、人間は地球という一つの天体に収束され、その天体は互いに引き合い、一つの塊を構成し、巨大なスケールの次元に神人という1なる存在を作り上げる。これがのしてんてん系宇宙の実際の見え方と言える。

  この世界を示すモデルとして先に図を示した。

  一見して分かるように、5つの点が互いに引き合い集合して1なる存在を作り上げている。さらにこの1なる存在が5つ塊になってより大きな1なる存在を作っている。さらにこの1なる存在が5つ集合してよりスケールの大きな次元に1なる存在を出現させるのである。そして限りなくこの五角形は拡大して行く事を表している。  ここで重要な事は、この図における点についてである。この点を拡大鏡で見れば1つの点ではなく実は5つの小さな点からなっている事が分かる。しかし私達人間の目にはそれは1つの点としか写らないのだ。私達が一つのものとして認識するこの点は、実は目に見えない小さな点が集合して作られている。このように世界は、1なる存在(かたまり)を作ることによって初めて認識の下に現れるのである。

  ところが、世界が均一なエネルギーしかもたない世界はどうだろうか。同じようなモデルを使って考えてみると、次のようになるだろう。

  エネルギー関係が等質な空間とは物が当間隔に並ぶ世界である。

  右の図はそのことを表している。このとき4つの点を1つのまとまりと考え
ると、各スケールの場は図の線で区切った区画のようになる。

  このとき一番小さなスケールの区画に注目すれば、点がひとつしか入っていない事が分かるだろう。

  ところがエネルギー関係の均一な世界では、物どうしは当間隔を保っていて身動きがつかず、どこかにまとまって1なる存在を作る事がないのであるから、この点が1つしか入っていないスケールの区画は矛盾することになる。そこでこれを補正すると次のようになる。

  前の図で点が1つしか入っていない区画を4個の点にして置き換えたのが右の図である。  全体に点の数が増え、当然だが各点がそれだけ小さくなっている。

  ところが、のしてんてん系宇宙ではスケールの軸は無限に小さくもなって行くのであったから、この図からさらに小さな区画を考えることが出来るのである。するとそこにも又点が1つしか入っていない区画が現れてくる事になる。

  先の理由から、これも矛盾であるから同じようにこれを補正する必要が出てくるだ
ろう。

  すると全く同様の理由から、さらに全体の点の数は先の4倍に膨れ上がり、逆に点の大きさは4分の1に縮んでしまうであろう。

  それでもまた、さらに小さなスケールに目を向ければ、点が1つしか入っていない区画が現れるから、そのたびにこれを補正し続けて行けば、点は4倍ずつその数を増やしていき、逆に大きさは4分の1ずつ縮小していくのである。

ところで、のしてんてん系宇宙は無限のスケール軸をもった宇宙であったから、この補正は限りなく続くことになるだろう。なぜなら、この図では常に最小のスケールの区画には点が1つしか入らないからである。つまり設定する点が大きすぎる訳
なのである。

そして結局、この修正を無限に続けるならば、私達はこの点を見ることが出来なくなる。まさに無となるのである。あたかも空気が見えないように、その空間は無として捕らえられるであろう。

  この点が物の存在を表しているとすれば、初期宇宙はまさに物存在を無限に小さなスケールに先送りして行き、逆にこれら物存在は無限に数量を増やして空間を充満させていると言うことが出来るだろう。

  無とは実のところ何もないと言うのではない。それはむしろ空間にくまなく物の充満した存在なのであって、それゆえにまた私達に認識し得ない存在なのである。本書の第一部で述べた「有の無」とはまさにこの無を指している。あるいは宗教家の言う無もまたこの無を指していると私は考えるのである。

  無は、世界の根源である物と空間を包括した全一の存在そのものである。そしてこの無こそ、初期宇宙そのものであり、私達の最も深い源流すなわち故郷と言える。私達はまさにここからやって来たのだ。

  ともあれ、以上、物が均一に存在する初期宇宙の無について証明した。

  4.現実感

 

  私達は現実感の中で生きている。現実感の伴わない感覚は夢、あるいは幻想としてとらえられる。現実感は突き詰めて考えればあやふやな問題をはらんでいるが、日常生活の上では非常に重要な感覚と言わねばならない。

  今確かに自分は目覚めていて、仕事や家庭の事を考え、書類を作っ

たり、人と話をしたり食事をしている。このとき私達には確かに現実感があって、私空間にある種の緊張が生み出されているのだ。

  悪いことが起これば夢であってほしいと願う。しかしそれが決して夢ではないのだと、暗たんとなった経験はだれでもあることだろう。そこには、これは夢ではないと確信させる現実感が確かにあるのである。これは一体何だろうか。

  今こうしている。この感覚が既に現実感であり、私は自分をはっきりと認識している。他ではないここに今、自分はいる。考え感じている自分がいる。これらは夢ではない。変更のきかない現実なのだ。こういう思いが一まとまりになって現実感を作っているのだろう。

  しかし実際には現実にしろ、夢にしろ、そのただ中にいる時には区別をつけることは出来ない。夢の中にあっては、それを夢と知ることはまずない。醒めて初めてそれが夢だったと分かるのである。何度も夢から醒める経験を積んで、私達はいわゆる現実感を身につけるのだ。夢を見ている感覚と、醒めている感覚とはどこか違った所がある。そしてそれを知るのは現実の中の私であって、夢の中の私ではないのは確かだろう。それでも曖昧さは残ってくる。

  現実感とは確かに自分は現実の世界にいるという感覚のことである。このことをまず具体的に見てみよう。

  私は森の中にいる。目の前に大きな老木があり、苔のような植物が枝から垂れ下がっている。何種類もの樹木が立ち込め頭上で枝をからませあって太陽の光はこの地上にはほとんど落ちて来ない。時々小鳥の高い鳴き声が聞こえ、ひんやりした空気が霧のように流れて行く。

  さて私は現実の中にいるのか、夢の中にいるのかそれをどう確かめたらいいのだろうか。私が現実の中にいるという保証を与える現実感とは一体どういうものなのだろう。  私は水気を含んだ腐葉土を踏み締めている。それを拾いあげて感触を楽しみ、その香りを嗅ぐことが出来る。大きな老木に寄り掛かることも出来るし、その場で自分の思いつくままの行為をすることが出来ると思える。これは一つの現実感であろう。

  あるいは注意深くあたりを見回し、木の葉の一枚一枚が風で揺れるのを確かめることが出来る。耳を澄ませば、遠くに近くに小鳥の声や森のざわめきが聞こえてくる。自分を取り巻くすべてのものが自然のままにうごめいている。その変化を感覚がはっきりととらえる。ここにも一つの現実感がある。

  また自分の内面に目を向ければ、ひんやりとした空気に包まれて緊張した皮膚が心地よく感じられている。森の雰囲気から受けるゆったりした感覚が体を伸びやかにして行くように思われる。足の筋肉に心地よい疲労感が広がっている。空腹感がある。こうした感覚もまた現実感と言えるだろう。

  さらに私の記憶には、朝起きてここにやって来た経緯が収められている。私はなぜここに来たのか知っているし、これから何をしなければならないか分かっている。あるいは職場での人間関係に疲れ切った自分の姿や、生まれてこの方嫌悪しつづけてきた自分の性格など、自分に関する一切の認識がある。要するになぜ自分がここにいるのか系統立って説明出来るはっきりした記憶と認識がある。この認識もまた現実感を生み出す。

  私達の持つ現実感は、およそこのような要素が絡まりあって生み出されていると考えていいであろう。

  現実感は外に他人との関係からも生み出される。つまり私達は多くの人々と様々なコミュニケーションを持つことが出来る。私達はそこに強い現実感を持つのである。

  結局、現実感は、次の5つの要素に分類する事が出来るだろう。


  1.ものに触れることが出来る。(直接知)

  2.光景や音響を細かく識別出来る。(遠隔知)

  3.全身の感覚に注目することが出来る。(自己感覚)

  4.記憶の前後関係がはっきりとつながっている。(自己認識)
 
5.コミュニケーションが成立する。(他者認識) 

 
この5つの要素が重なり合い、絡み合って私達は自分だけの世界を作り上げる。自分だけの世界というのは、一方でそれが真実の世界ではないと言うことをも意味している。私達が世界だと認識している空間も山も木も人も、そして自分自身さえも、それは真実ではない。それは真実ではなく、認識なのである。それゆえ私はこの世界を私空間と呼んで、真実の世界と区別するのである。

  真実の世界は、今この瞬間に存在している。しかし私達の認識はその真実をそのままとらえることが出来ないのだ。たとえ目の前にある老木に手を触れ、様々な角度からこれを眺めても、得るものはただ老木からの情報ばかりであり、私はその情報から老木の存在を位置付けるしかない。情報は真実からやって来るが、真実そのものではない。私空間はそのようにして成り立っているのである。

  このことは自分自身についても言えるだろう。私達が自分としてとらえている感覚や認識にしても、それらは決して真実そのものではないのである。これもまた真実からやって来る情報に外ならないのだ。

  コミュニケーションもまた真実のやり取りではない。真実はただ厳然とそこにあるものであって、やり取り出来るようなものではないのである。ただの情報だからこそ私達の間でコミュニケーションとして成り立つとも言えるだろう。

  つまり私達のもつ現実感、あるいは現実と言えるものは、真実とは掛け離れた私空間の中でのとらえ方なのである。すなわち自分が作り上げた世界と言っていいだろう。このように現実とは、真実と違って個人的な実にあやふやなものだということをまず理解しなければならない。

  あやふやだと言うのは、現実と夢の間には大きな差異がないということを意味する。つまり私達の持つ現実感が、真実そのものでないなら、結局この現実というものも私達自身が作り出したものと言えるからである。

  あえてその違いを上げるならば、現実は直接に真実からやって来る情報によって作り出されるのに対して、夢や幻想は頭脳が勝手に作り出した情報に依っていると言えるだろうか。

 しかしながら私達が現実としているこの実生活の場を観察すれば、

直接真実からやって来る情報をそのままとらえて理解していると言うような場面は、極めて少ないのである。  たとえば私の目の前で、

一人の男が笑った。そのとき私はそれをそのままでとらえることはまずないだろう。私はそれを侮辱と取るかもしれないし、友好のしるしと取るかもしれない。いずれにしても私は、やって来た情報を頭脳で処理する。すると、とたんにそれは夢と全く同じ構造となる。

外からの情報に刺激を受けてのこととは言え、そこから頭脳が勝手に情報を作り替えて世界を作るからである。

  勝手に情報を作り替えると言うのは無論、認識そのもののことを指している。実際、認識は真実を指し示しはするが、真実そのものではなかった。同じものでも人によって認識が違ってくるのはこのためである。

  逆に言えば、夢もまた認識の一つだと言えるだろう。

  意識に現れた情報を自分との関連で意味付けること、というのが私の示した認識の定義であった。そこから言えば、夢は、やってくる情報が、現実からではなく頭脳に記憶されたものだということだけで、その構造は認識そのものなのである。

  つまりこういうことが出来るのだ。

  夢と現実を、私達は全く違ったものと考えてしまうが、実際にはそう異なるものではない。それらを区別するものはただ現実感の有無のみである。しかしこの現実感にしても認識に外ならないのであるから、結局は、夢も現実も同質のものと言えるのである。その意味から私は私空間に夢と現実の区別を付けないのである。私空間を認識の空間と見るならば、夢もまた現実であり、私空間が真実そのものではないという事から言えば、現実もまた夢なのである。

  するとここで重要になってくる事は目覚めということになってくる。私達には、目覚めた後に初めてそれが夢であったのだと分かるのであって、夢のただ中にある私達はただ思考を働き続けるしかない。目覚めない限りそれを夢だとして、思考自体を外から眺めることは出来ないのである。

  現実感のある思考は、十分客観的な見方が出来ると私達は信じている。この客観的思考が科学を発展させ、文明を築いて来たのであり、私達を取り巻く世界は現実そのものである。社会はそこに成り立っているのであって疑いようもないだろう。これは私達の紛れもない現実感と言えよう。 

  しかし実のところ、この現実感も夢ではないという保証はどこにもなかったのである。私達は覚醒しないまま夢を見続けているかもしれないのだ。

  私はまずここで、思考が作り出す世界に対する、私達の絶対的な確信に、一つの疑問を提出した。夢と現実が同義だとするなら、私達はこの思考の作り出す虚構性にどう対応したらいいのだろう。

  しかしこの現実感と覚醒の問題は、もう少し後で、詳しく考えることにして、今は考えるということの虚構性をさらに幾つかの面から見ておきたい。

 

 

 

  第2節  思考地図

 

      1.思考の分類

 

   一口で「考える」と言っても、そこには様々な思考の形態が含まれている。

  と言うのも、私は考えるということがそのまま心を作り上げていると理解するからである。

  心は、論理的な側面よりも情念的な領域により大きな意味合いがある。心は苦労して論理を駆使して世界を作り上げるが、一方ではそんな世界を覆すような、非論理的で不合理な世界をいとも簡単に作り上げてしまうのである。 

  あるいは言葉で言い表せない感覚や感情の支配する世界を作り上げることもある。

  私は、これら心全般にわたる働きそのものを考えるという言葉でとらえたいのだ。しかしそのためには、思考を実際的な現れに即して対応できるような分類が必要になってくるだろう。

  そこで私はこの考えるという形態を次のように分類した。

 

  1、理念思考(論理的理性的合理的パズル的思考)

  2、情念思考(非論理的没論理的思考)

  3、身体的思考(習慣的身体的、感覚的、無思考的思考)

 

  この分類は、心の実際の現れから見た分類である。したがって身体的思考などは、考えるということには当てはまらないように思われるが、私はあえて心のこのような相にまで、考えるというとらえ方をした。

  なぜなら私は、思考を行為ととらえるからである。つまり不作為もまた行為であり、心の現れに外ならない。いかに私達が無思考的であれ、それは無思考という思考なのである。実際、思考の正体はエネルギーの波動である。世界は物とエネルギーから成り立っているのであったが、思考は確かに物ではない。するとそこから自ずと思考はエネルギーの現れの一つだと言うことが分かってくるのである。これはいずれ順を追って論を進めて行く中で、理解されるであろう。

  もっともこの分類は便宜的なものであって、心がこのように切り離されると言うのではない。当然ながらこの分類から漏れるものや、

その中間に属するもの、どちらにも入るような思考の形態はあるかもしれないだろう。

  しかしこれは私にとってたいした問題ではない。そもそも心は区分など出来ない一つのものなのである。私の本意は、この心を生み出す思考を一つのものとしてとらえることにある。この分類はそのための論理を整理するための方便ととらえたい。

  ともあれこの分類に沿って、考えるという実態に触れて行くことにしよう。 

 

  2.理念思考

 

  理念思考は、現代科学を生み出した人間の基本的な思考形態である。

  私達は目覚めている限り、何らかの形で世界を認識している。

  しかし私達を取り巻いている真実の世界はそれよりもはるかに広く大きい。この真実の世界=公空間は、ただあるだけでは私達には認識できない。それはただ私達の気づかないものとしてそこにあり続けるだろう。

  この気づかない世界が私達の前に現れるのは、それが私達自身との関係を取り結んだ時からである。

  例えば空気について考えてみよう。

  人間がまだ空気の存在を知らなかった頃、人々にとって空間はただ無というものでしかなかっただろう。それは空っぽの何もない場所であって、それが認識の背景となっても、決して認識の対象にはならなかった。

  ちなみに空間だけを認識しようと試みてみるがよい。空間に向けられた認識はただ宙に舞うばかりで、決してそれをとらえることは出来ないであろう。結局空間をとらえられるのは、物を取り巻くものとか物と物の隙間と言ったような二次的な概念でしかないことに気づくはずである。

  ところが、この空間に空気があって、それが私達の呼吸する酸素や二酸化炭素などの分子から成り立っていると知ったとき、私達の認識は即座にこの空間をとらえ始めるだろう。私達の世界観は、もはやこの空間をただの虚空とはとらえない。この空間は空気の充満した一つの存在として現れてくるのである。

  空気はいつの時代にも、私達の目に見えるものではない。にもかかわらず現代人の認識は、はっきりとそこにある空気をとらえることが出来るのである。

  私達の作り出す認識の世界には、極めてくっきりと空気の存在が位置付けられている。これは空間の中に、「私」と空気の関係がしっかりと取り結ばれていることを示している。もはや私達はこの世界から空気を取り除く事は出来ないのである。

  私達の世界に空気が現れたのは、私達人間が虚空を観察し分析を続けて、目に見えない物の存在を確認していく歴史を通してである。

  虚空に対する思いからやがて人間は、目に見えない、切り離しようのない空間を、空気(分子と空間)という形で区分することに成功する。

  真実の世界=公空間から見れば、空気はいつの時代にもただあり続けていた。私達には知り得なくても、空気は私達の認識の外で、私達の生命そのものを支え続けて来たのである。

  しかしにもかかわらず、認識の世界=私空間では、それは認識した段階からでしか存在することは出来ないのである。この点はあらためて確認しておく必要があるだろう。

  思考は、まさにこのような認識を基本として生み出されてくるものである。このとき合理的な論理の流れを持つ思考の一切を理念思考と呼ぶ。

  理念思考はつまり、認識によって区分されたそれぞれの単位、すなわち<ことば>を素材にして論理的に組み立てられて行く思考と言えるだろう。

  ところでこの理念思考は、まず目標が設定される。思考はその目標に向かって働き、やがてそこに行き着くことで完結する。

  この思考目標は、例えば空を飛びたい(期待)というものや、なぜ月は落ちて来ないのか(疑問)、1+1はいくつか(設問)などの問題設定から生み出される。

  これらの問題設定は無数に生み出され、思考目標は限りなく現れる。しかし私の考えでは、これらの目標は共通するただ一つのものに置き換えることが出来るのである。

  日常生活の中で発せられる問題や疑問、学問的な研究課題、あるいは便利さの追及など、様々な思考目標のすべてに共通するもの、それが「何」という問いかけなのである。

  これは私たち人間の最も基本的な問いかけであり、既に私達は認識との関係の中で何度も触れて来ている。つまり未知なるものに対する「何、なぜ、どうして、どうしたら」という知性的な欲求が新たな認識を生み出すという、この基本的な流れが思考のすべての根底に横たわっているのだ。

  鳥のように空を飛びたいという思いから人は飛行機を作り出したが、その過程は「何」という問いかけからなり立っている。つまり<あれは何><なぜ飛べるのだ><どうすれば飛べるのか>という具合である。

  このように「何」という問いかけが思考を生み出す原動力となっているのは明らかなことであろう。

  そうすると理念思考は、認識によって区分された世界、すなわちことばを使って、「何」という問いかけに答えようとする一連の過程であると言うことが出来よう。

  その結果として人はまた新たな認識を得る。そう考えると思考は認識から新たな認識を作り出して行く動的な行程であると理解出来るのである。

  私達はすでに認識については詳しく見て来た。そこで触れた認識のダイナミックな構造は次のとおりであった。

  すなわち認識は、人間の宇宙的存在とも言える意識から出発する。

まず自らの肉体を知り、身体の「快・不快」を体験することによって少しずつ知性が芽を出し始める。そこから「何」という問いかけが生まれることで認識は飛躍的に高められる。認識はそれ自体が新たな認識を生み始め、細分化されていくのである。

  理念思考はまさにこの認識の成長して行く流れそのものであったのである。つまり理念思考は「何」という問いかけが引き金となって起こる頭脳の連鎖反応と見ていいだろう。

  「何」という問いかけによって設定された問題を論理の道筋を通して解いて行く。これはまさにパズル的思考と呼べるだろう。

  ただそれが自然の流れとしてあるのか、「私」の意志として働くのかは次の問題である。今はまだその時ではない。

  ところで私がここで理念思考ということばを使うのには理由がある。

  これまで述べて来た内容から言えば、むしろ論理的思考と名付けるほうがふさわしいようにも思えるのだが、しかし実は人間のこの論理的思考の発達を支えて来たものの多くは、論理的でない部分からやって来たのだ。

  それは論理から飛躍した、人間の洞察力とでも言うべき直感である。直感については情念思考の中で取り上げるつもりであるが、論理を駆使して世界を把握しようとする私達の探求は、その求める世界が未知であればあるほど、この直感なくしては達成され得ないのである。

  なぜなら、既製の論理をいくら積み上げて行っても、そこから生み出されるもののほとんどが、既知の世界を越えることはないからである。論理の追及は、未知の世界を既知の世界に取り込もうとする作業であるが、その未知を取り込むためには、いったん未知の世界に手を伸ばして取り込むしかない。つまり手持ちの材料をいくら加工した所で、それだけで未知なる世界を作り出す事など出来るものではないのである。

  この未知の世界に手を伸ばすと言うのは、いわゆる直感にほかならない。

  人間は直感によってまず世界を理解する。しかしそれは論理的な思考から見れば言いようのない不安定さと疑いを生む。そこで人はその直感を論理をもって説明するのである。そこに真理の発見がある。様々な真理の発見は、まず直感がその扉を開ける事が多いのである。

  こうして人間は認識を深め、論理的世界を広げて来たのだ。私達のこうした思考の流れは、決して一つの側面だけで成り立っているのではなく、切り離すことの出来ない一体としてのつながりを持っている。人間の思考は、たとえ論理的な思考といえども、コンピューターではなし得ないという私の論拠はここにあるのだ。

  すなわちそれは、論理的思考ではなく理念思考なのである。

  さて、私はここで少し立ち止まって、理念思考の虚構性について見ておくことにしたい。

  私達の思考はそのまま私空間を作り上げる。つまりそこにとらえられた世界は、いつの場合も真実そのものではない。

  思考とは、常に「何か(真実)について」の思考であり、思考それ自体がその「何か(真実)」ではない。つまりそこに思考の虚構性が生まれてくる訳なのである。

  しかしそこからまた疑問が生み出されてくるのも事実なのだ。では理念思考の生み出した科学や文明もまた虚構だというのかと。  実際科学の力は様々なものを生み出した。もしそれらが虚構だとするなら、どうして人間が空を飛んだり海に潜ったり、果ては宇宙に飛び出すというような実際的な力を生み出せるのだろう。これを見れば理論が虚であるなどと言うのは根拠のない空論ではないか。

  一応もっとものように聞こえる反論ではあるが、しかしそこには虚と実を混同した考え方があるのである。 

  飛行機が飛んだり、ロケットが宇宙に飛び出したりするのは真実の一つの現象である。確かにそれは人間が造ったかもしれないが、しかし決して論理が空を飛ぶ訳ではないのである。人間がロケットを作ったのは真実であるが、思考はただそれを指し示しただけのものであり、それ自体がロケットであり得ない。この思考は、ロケットが私達の認識する次元の宇宙を飛ぶということについては説明できるかもしれないが、別の次元の中にあるロケットには当てはまらないかもしれない。

  もっと具体的にいえば、ニュートンの力学と相対性理論の相克がよい例であろう。

  地球という限られた次元で見れば、光は直進するという論理は真実と合致しているように見える。アインシュタインが現れるまで私達は、光りは直進するという考でもって光をとらえていた。

  しかしその理論はただ現実に見る光の運動と、たまたま一致しているように見えただけなのである。真実の光は重力によって曲げられていた。宇宙という大きな次元から光を見たとき、アインシュタインのこの理論の正しさがはっきり証明されたのであった。

  このことはまさに理論というものが真実そのものではない事を表している。理論とは結局その場で確認できる真実の現れを、言葉でうまく言い表したものに過ぎない。すなわちそれ自体は虚と言うべきなのである。

  虚でありながら、とりあえずそれが真実に間違いなく対応出来ているだけのことである。逆に私達は、それ以上の真実が見えないために、この理論を真実として受け入れているに過ぎないのだ。そしてこれはすべての論理に共通する理念思考の一つの限界を示しているとも言えるだろう。

  繰り返せば、私達の今認識できる空間の中では、確かにロケットを飛ばせるかもしれない。しかし同じ理論でロケットが飛ばない次元がないとはいえないのである。真実はまさにそのように広く深いのだ。事実、ブラックホールの内側では現在の物理理論はまったく通用しないのであるから、これは決して空論ではないというのは明白だろう。   

  また一方、理念思考は相手に誤解なく伝わるという側面がある。これをもってして理念思考は虚構と言うのはおかしいという考え方も生まれてくるだろう。

  たとえば1+1は2だという事から、複雑な数物理論に至るまで、

そこで表明された考えはほぼ完全に相手に伝わり共通の理解が得られるのである。そこに私達の文明があり、社会が成立している。

  あるいは太陽が東から昇って西に沈むというような自然現象にまつわる思考にしても、それらは誤解しようのない公知の事実というしかないだろう。

  情緒的な思考は誤解されて当然としても、このような論理的思考はもともと情緒を排した自然の原理に従ったものであるから、だれもが同じようにそれを理解することができる。したがってこのような思考は真実ではないかと考えられないことはない。

  しかしそれでもそれは虚であると言うしかない。     

  論理的思考が誤解なく相手に伝わるのは、それは初めから合意できるように共通の言葉を取り決めてあるからである。

  論理的思考は、そのあらかじめ用意された言葉の枠に真実の方を当てはめて表現しているだけの事なのである。互いに理解できる共通の言葉を作っておいてその枠の中で思考を組み立てて行く。これが論理的思考の基本である。つまり初めから思考を制限して組み上げるのが理論なのである。

  したがってこのルールに従って表明された思考は誰でもそれを理解できると言うのは当然のことなのである。

  しかしこのような論理的思考は、制限した思考の分だけ真実から遠くなっていることを私達は見逃してはならない。論理はその枠の内側で正しさが立証されるが、真実の方はそんな枠には決して収まらないだろう。

  あるいは、確かに論理的思考は、言葉によって表現し、これを相手に伝えることが出来るが、しかし相手が正しく受け取ったかどうかは分からない。これは既に私空間についての考察で取り上げているように、虚そのものである。

  真実は言葉の背後にあって、それを知るのは体験以外にはなく、そこには言葉で言い表すなにものもない。結局真実はことばでは言い表すことが出来ないのである。

  にもかかわらず私達は真実をとらえようと言葉を駆使する。論理的思考はことばによって組み立てられる。ことばの一つ一つが私達に意味を与えてくれるが、しかしそれらはあたかも小さな靴に無理やり足を入れようとして、足のほうを削っているような不自然さが常に付きまとっているのである。例えば限りなく0に近づく線分を0と考えるように。

  しかしどんな優れた理論でも、それが限りなく真実に近づくとは言えても真実そのものに行き着くことはないだろう。なぜならまさに真実とは行き着くものではなく、すでに今、ここに完全に存在しているものだからである。

  私はこれをもってして、理念思考を無意味なものと言うつもりはない。それはむしろ人間存在そのものを表している。それを否定する事は人間否定につながって行くしかないだろう。

  つまり私の言いたい事は、理念思考は真実に向かおうとする人間の意志が生み出した思考形態なのだということである。このことが意味しているのは、人間が立っている認識空間そのものが虚構にほかならないと言うことなのである。

  だからこそ人は真実を求めずにはおれないのである。

 

 

   3.情念思考

 

  情念思考は自覚された非論理的思考である。

  理念思考が論理的な道筋を通るのに対して、情念思考はその道筋そのものがない茫漠たる広がりを持った思考世界とも言える。

  あるいは理念思考が言葉を表現手段として組み立てられた世界であり、したがってそれは頭脳が作り上げたことばの世界であったのに対して、情念思考はそれを越えて解放され、自由に世界を感得する思考形態を持つ。

  言葉の制約を受けない為に、この思考は真実にまで届く可能性を持っている。

  しかしその反面、情念思考でとらえられた世界は、完全な形で他人と分かち合うことが出来ない。まさに個人の内的体験としてのみとらえられる思考なのである。

  情念思考はこれらの点で理念思考と大きな違いがある。しかしまた後に述べるように、この二つの思考形態は密接に関係を結んでいる。実のところこの思考の結合関係こそが私の最も注目したい所なのである。その関係は微妙で見過ごされやすく、これまであまり取り扱われなかった分野ではないかと思われる。

  ところで思考は確かに虚構の空間を作り上げる。それは理念思考において顕著であり、一つの虚構は更に新たな虚構を生み出す。この構造を私達は認識の考察の中で既に見て来ている。人間はまさに虚構を積み上げて世界を構築する動物なのである。

  しかしよく考えてみれば、この虚構は空虚から生み出される訳ではない事が分かってくる。

  確かに私達は虚構が虚構を生み出して行く構造を見て来た。しかしそれを逆に辿ったとき、一番初めに生み出された虚構に行き着く。この最初の虚構はどこから来たのか。

  虚構とは実存しないものであり、したがって常に新たに生み出されなければ存在しないものである。この生み出されない限り存在し得ないものこそ虚構なのである。

  すると虚構の前にそれを生み出すものが存在しなければならないだろう。最初に虚構はあり得ないのだ。

  そうだとすると、それを生み出すものは実在であるしかないことになるだろう。

  実在とは既にそこにあるものであり、生まれることも死ぬこともない完全なる存在であるからである。

  実在とは既にそこにあって、今もそこにあり、永遠にあり続けるものである。それは決して生まれたのではなく、そこに厳然と、ただ一つのものとして存在している世界なのである。

  虚構は常にその出所を問われるが、実在は始めも終わりもない存在そのものである。虚構の原点を求めれば結局この実在しかあり得ないであろう。

  言い換えれば、実在とは全てが唯一の存在としてある公空間そのものであり、そこから私空間という思考が作る虚構の世界が生み出されると言うことが出来るのだ。

  具体的に言えば、私空間の主人公である「私」と言う観念も、それ自体は実体の無い虚構と言い得るが、それに先立ってこの観念を生み出したものは私のこの実在以外にはない。「私」が最初からあった訳ではないのである。   

  ところで情念思考はこの実在である公空間と、虚としての私空間の橋渡しとして、あるいは接点として位置付ける事が出来ると私は考える。

  もっとも情念思考の領域は広く、私空間から公空間に至る段階に様々な次元が含まれている。そしてそのほとんどの場合に私達はそこにまたしても虚構を見ることになるだろう。 

  しかし情念思考の最も高い次元には公空間の直接的な体験と理解がふくまれており、そこに虚としての人間存在を実在へ立ち返らせる可能性があると言える。

  次にこの情念思考に立ち入ってみよう。

  情念思考は非論理的な思考であると既に書いたが、これには二つの意味がある。

  一つはまさに非論理的な思考であって、論理として統一性を欠く思考である。しかしそれは合理的な論理ではないというだけであって、言わば不合理な論理思考と考えてもいいかもしれない。

  この範疇に入るものとして、感情的思考、神秘的思考、感性的思考が考えられる。

  さて二つには、論理では言い表せないという意味で非論理思考と言う。いわば没論理思考と呼べるだろうか。そこには思考というよりも実在そのものに入ることによる理解と体験がある。

  ここで私が取り上げるのは直感と覚醒した意識である。

  以下順次見て行くことにしよう。

 

 

 

  @非論理思考

    (感情的思考)

 

  前者の意味における非論理思考には、たとえば感情的な思考がある。様々な人間関係や社会関係の中で、私達はしばしば感情的な発言を経験する。感情的な意見は論理性を無視して直接心情に訴えようとするやり方であり、多くの場合論理に行き詰まった者の取る表現である。しかしまた、逆に群衆を扇動する目的で感情的な発言をする場合もある。それは論理に行き詰まって不安に駆られた群衆を駆り立てて行く大きな働きをするのである。

  論理に行き詰まった者には、それを突き破ろうとする強い欲求が生まれる。彼の心の中には強い不足感が充満する。その不足感は論理によって充足されない限り吐き出すしかなくなるのだ。

  議論はある意味で戦いである。論者は冷静な議論の中に、闘争的な心を乗せている。しかしその論理をうまく組み立てられなくなると論者は自らの闘争心をそのまま表現するしかなくなる。会議中の感情論者が常に攻撃的なのはそのためである。 

  あるいは物事の先が見えないと言う不安がある。自分では解決がつけられない為に権威的な意見に盲従し、感情のまま何の反省もなしに行動する。そこにあるのはただ論理の欠落した感情的思考なのである。

  いずれにしてもこの感情的な表現は、自分の考えを論理(ことば)

に置き換えることが出来ないために起こす一種のヒステリーといえる訳であるが、しかしそれは逆にこの感情的な思考が論理(ことば)

をベースにしていることを意味しているのである。

  なぜなら感情的な態度には自分を正当付ける言葉を求めようとする意識が働いており、結局それが得られない事によるヒステリーであるからである。 

  感情は物事を認識する時の一つの要素であった。すなわち認識する物事と自分との関係がその時の感情を決定するのであったが、この感情は必ずしもことばで言い表せない事が多いのである。

  例えば酒の好きな夫が酒を飲もうとする。その時妻がやって来てあなたは肝臓が悪いのだからお酒はだめですと言ったとする。

  妻の言うことはどこから見ても正しいのだ。しかし夫はそれを分かっていてなおかつ酒を飲みたいと言う自分を知っている。双方の思考をどちらも正とするなら、彼の思考は論理でうまく置き換えられない事になる。彼は腹を立てるか恐縮して引き下がるしかないのである。

  しかしそれでも、彼の思考ははっきりとしたことばで組み立てられている。つまり「酒」と「病気」という二つのことばが彼の中にあって対立し論理的な矛盾が生まれ、解決がつかないために感情が動き出す。病気というマイナスの感情を土台にして、それを治療するというプラスの感情が生まれる。そこに酒というプラスの感情が加わったとき、彼の中でその二つのプラス感情は矛盾することになるのだ。そこに論理が崩れ、結局感情の強弱によって物事を決定しようとする。そこで酒が生み出すプラスの感情が病気を治すというプラスの感情に勝って、彼は酒に手を伸ばすのである。

  妻に制止された時、彼の思考の中には「妻」ということばが現れる。それに伴って、その妻に対して抱いていたこれまでの思いが連動する。そこに彼の妻に対する感情が生み出される。それがプラスの感情であったなら、つまり彼にとってよき妻であったなら、彼の思考は妻に対するプラス志向のために、酒と言うプラスの思考は弱められる。逆に妻がマイナスであったならば、彼の酒に対する思考はさらに強められるだろう。このように感情による思考は論理としては破綻しているけれども、それでもなおかつ言葉による思考であることに変わりはないのである。ただ思考の流れを感情に任せているに過ぎないのである。

  ただこの観点から言うならば、論理的思考といえども感情の土台無くしては考えられない事を見落としてはならない。なぜなら感情は認識の中に不可分に現れる要素であり、更に論理は認識無くして生まれることはないからである。ただ論理的思考は、その感情を言葉によって満たしている為にその感情が表に出ることがないだけの事である。   

             このことを図示すると次のようになる

  こうして見れば明らかに感情的な思考は理念思考と同じ形態を取っていることが分かるであろう。

  したがってここでも感情的思考の虚構性を指摘することができるのである。感情的思考は自ら作り出した虚の世界、すなわち私空間の中で生み出された感情の対立や矛盾によって論理性を失った思考なのである。

  論理性を失ったといえども、そこに生まれている感情的思考に対する自覚はある。彼は自分で何をしようとしているのか知っているのだ。知っているからこそ葛藤を生み出し、反省もまたやって来るのである。彼にしてみれば、治療と酒という二つの言葉に合理的な解決が得られない限り、この葛藤と反省は常に彼を苦しめることになるだろう。

  相対立する概念を同時に持ち続ける事は結局自分を分裂させてしまうのである。そこからは感情表現しか現れて来ない。

  あるいはこの苦悩から抜け出すために、思考そのものを消そうとするだろう。いやなことは忘れる。すなわち思考を自覚から追い落とそうとするだろう。

  このような次第で、感情的思考はやがて次の節で述べる無自覚の思考へと身を落として行く可能性をもっているのだ。感情的思考は第三の思考形態、すなわち身体的思考につながって行く入り口になっているのである。身体的思考については後で述べることになるだろう。

  ともあれ感情的思考はこのように、情念思考の枠の中で最も低次元の位置にあって、身体的思考とつながっていると考えることが出来るのである。

 

 

  (神秘的思考・宗教的思考)

 

  論理の破綻を、感情的思考は感情をそのまま持ち出す事で成り立っていたのに対して、神秘的思考はその破綻そのものをブラックボックスに閉じ込めることで解決しようとする思考であると言える。説明出来ない出来事や現象を神の力と考えることでそれ以上の問いかけを中断し、それ自身を真実として理解しようとする。これを私は神秘的思考と呼びたい。

  論理の破綻を、論理を工夫して繕うとする労力の代わりに新たな言葉を作り出し、それ自体を丸ごととらえようとするこの考えの背景には、明らかに感情的思考にはない、強い世界認識への意志が認められる。そしてその最も高次元の所に、宗教的と呼べる思考形態がある。

  この次元においては、思考に対する強い自覚が働いて、自分の存在や生きる道を探求する方向に向かうだろう。

  無論その中にあっても、次元の違いはある。あくまで神を追及しようとする者と、神をただ盲信する者との間には明らかに大きな次元の違いがあるのである。

  前者には人生に対する能動的な働きかけが認められるが、後者に至っては受動的な態度しかない。

  受動的な態度とは、この宗教的思考をただ与えられるままに受け入れているに過ぎないのであって、必ずしもそこに自ら感じ体験する実在を見ている訳ではない。それよりもむしろ、神と言うことばを単に言葉としてとらえている次元であって、ここにもまた虚構が顔を見せている。私はここにいわゆる宗教団体の愚を見る。神の名において殺し会い憎み合う人々はまさに、この虚構によって翻弄されているのである。

  神とは実在そのものである。そしてこの世に私達が完全に描き出せるような神などは存在しない。まさに神は、我々の想像力が届く範囲をはるかに越えている。

私達は四次元よりもはるかに大きな世界、すなわち五次元宇宙の認識に成功したが、しかしこの、のしてんてん系宇宙にしても実在に対して太刀打ち出来るものではない。

 実在=神は、決してことばでは言い表せない全一の世界と言えるのである。

  ところで、この神をイメージしようとすれば、「私」という観念を無限に膨らませて行くと考えればいい。

  「私」とはこの体とその内面を意味し、その外側の世界は他者として判断される。「私」という観念は普通ここまでで、例えば私が座っている椅子をも含めて私とは考えないだろう。

  しかしここで、この観念のもっている領域を無限に広げて行くのだ。この椅子も私である。家も大地も私である。地球を銀河系も私である。このように「私」を自分という一個の体から宇宙の大きさにまで延長し、さらに無限に私を拡大して行ったとき、そこに経験する「私」の感覚が最も神に近いだろう。そのとき私はまさに全一として在る。実在=神とはまさにそのようなものなのである。

  この言葉ではとらえ切れない存在を神という言葉で済ませようとするのが神秘的思考なのである。

  しかしその神を単なる言葉として受け取り、例えば神を人間の形をしたような、ある特殊な単体として思い描いてしまうところに受動的な態度がある。宗教の多くが結局何らかの偶像崇拝に陥ってしまうのはこのためだろう。神と言う言葉が指し示すものを体験し得ない以上、この受動的な宗教的思考も虚構と言う他ないのである。

  私達にとって言葉は常に何かを指し示すものとして理解される。樹と言えば樹を世界から切り離して頭の中に描き出すことが出来る。あるいは空気というような目に見えないものであっても、それを何らかの形で私空間に描き出すことが出来るのである。

  たとえ銀河系宇宙であっても、私達は私空間にその宇宙だけを取り出してこれが銀河だと考えることが出来る。人間の想像力はこれぐらいには十分に広げて行くことが出来る。そしておそらく人はこのような理解の仕方に慣れてしまっているのだ。

  どんなものでも、言葉を使えば私空間に描き出せるものと思い込んでしまっている。あるいは逆に言葉がなければ私空間に何も描き出せず、それを理解することが出来ないと思い込んでいるのだろう。

  したがってそのために、およそ私空間ではとらえ切れない実在を神と表現するのであるが、その神が言葉として働くや否や、私達は私空間に小さな神を出現させるのである。これでは結局私空間の中に収まってしまう虚としての神におとしめてしまうのである。目には見えないが、神はどこかにいて私達を見守っていると言う考え方はまさにこのことを意味している。このような宗教的な考え方はすべて虚構と言わねばならないだろう。だからこそ人を殺し世界を破壊して行っても、神の名において正しければいいと言うような凶悪な思想が当然のごとくに現れてくるのである。

  それがもし真実そのものを言い表しているのなら、自然の調和を乱すような考えは一切出て来ないはずであろう。なぜなら、世界を破壊する行為は結局自分で自分を傷つける事に外ならないからである。神を思考すると言うことは、決してそれを言葉としてとらえる事ではない。それよりもその言葉によって指し示された実在の中に行こうとする意志が必要なのである。このとき人は神秘的思考を最も高次元で体験していることになる。そしてそれを越えたとき、

人は自覚の世界から覚醒へと至るであろう。すなわち直感による思考の世界つまり没論理思考の中に入って行くのである。

  古来より何人かの宗教者がこの地点を越えた。そしてその体験をそれぞれの方法で表現し、後世に伝えているのである。これらは、表現上の違いだけで、伝えようとしている本質は同じものだと私は考える。

 

 

  (感性的思考・芸術的思考)

 

  情念思考でさらに付け加えなければならないのは感性的思考である。感性的思考の最も高い位置に私は芸術をおく。

  ところで感性と言う言葉を少し説明しておかなければならないだろう。と言うのも私はここで一般に使われているのとは少し違った意味で感性という言葉を使っているからである。

  私は感性を、自覚された感覚という意味でとらえる。

  私達は生きる限り常に外界からの刺激を受けている。また体内においては、生命の活動がエネルギーの波動を引き起こしている。生きるということはこのように、身体の内外でのたゆみない運動であるが、それに応じて感覚が生じる。

  無論この感覚に連動して感情や欲望が生まれ、複雑な心の世界を作り上げるのだが、私はこの世界のうち、自覚して明確な認識の内に取り上げられた部分を感性と呼ぶのである。したがって、自覚されない感覚の世界を原感覚と呼んで感性と区別する。

  たとえば視覚をとってみたとき、私達は目を開けている間中何かを見ているはずである。しかしその視覚を間断無く認識しているかと言えば否と言うしかないだろう。

  今、目を開いたとしよう。とたんに世界から光がやって来て視覚を刺激する。様々な看板の立ち並ぶ街並みが続いている。私は人通りの多い街路に立っているのである。このとき私が何か目的の建物を探しているのなら、刺激された視覚の中からビルや看板などが選ばれ認識にのぼるだろう。すると視覚の中の他の領域は無自覚の世界に押しやられる事になる。すなわち原感覚のまま止まる。たとえこの時、私の目に通りがかる人々や路上の石ころが映っていたとしても、これらの視覚は認識される事なく無自覚のまま消えて行くのである。

  あるいは仕事に疲れた私の心にふと自然に立ち返りたい欲求が出てくれば、私は一瞬街路の並木を見やり、それに続く大空に目を向けるかも知れない。するとこのとき視覚から選ばれるのはそこにある自然の息吹であって、ビルや雑踏などは原感覚のまま無自覚の世界に消え入る。

  このように私達は日常、あふれるような視覚の量を持ちながら、それを認識して自覚の世界に表すのはほんの僅かだと言っていいだろう。ほとんどの感覚は無自覚のまま止まっているのである

  視覚の中から何を選ぶのかはその人による。感性とはまさにこのように自覚された感覚の世界とそれに伴う感情や欲求を指すのである。何を見、何を聞き、何を体感するのかは、まさにその人の感性によるのだ。

  さてこの感性は言うまでもなく言葉以前の体験に基づく世界であり、私達はそこからこの体験を言葉に変換して表現を試みる。

 空を見て一瞬解き放たれたような安息を覚える。それをきれいだとか、気持ちいいとか言うように、最もふさわしい言葉に置き換えて思考し、表現するのである。これを理念思考と呼んだ。

 しかし実際、私達はその言葉の前に、感性でものを考えているのである。空を眺めてうっとりしている。そのとき人は言葉など不必要でむしろ邪魔だと感じるだろう。そんなものに限定されないもっと大きな安らかな世界をそこに見ているのである。それはまさに自覚された感覚の世界、あるいは認識された体感の思考である。

 私はこれを感性的思考と呼ぶのだ。

 感性とは自覚された感覚のことであり、それに伴って起こる感情や欲求の総体としてとらえることが出来る。まさに感性は私達の日常的な感覚と心の世界を作り出していると言っていいのである。

 実のところ感性的思考は私達の日常生活の中で、最も大きな領域を占めていると考えられるのである。それは論理思考の背後にあって、常にその思考の流れを支えていると言ってもいいであろう。

 ところで感性的思考の次元が高くなって行くにつれて、そこで体験される事柄は、次第に言葉で表現することが難しくなってくる。言うまでもなくそれは、言葉が限定された意味づけをするためなのである。感性でものを考えると言うのは、真実をそのまま体験していると言ってもいいのであるが、それを言葉で言い表したとたんにその真実は言葉によって制限されてしまうのであり、その格差は広がって行くばかりである。

 そこで論理思考を排除しようとする流れが生まれる。芸術が論理を越えようとする理由はここにあるのである。一方感性が高められると言うのは、感覚に対する自覚作用が深まる事を意味している。 感覚は自分の身体が宇宙とつながっているその接点から始まっていると私は考えるが、自覚がこのような身体の原始にまで及んだときその感性は最高のものとなり、そのとき私達は宇宙と共にあるただ一つの存在であることに気づくのである。

 ともあれ感覚に対する自覚作用が広がる事で感性は高められて行くだろう。人は実在として生きている。その内的な体験が感覚を通して自覚されるのである。

 ところがまた一方で人間はこの体験を認識し、表現しようと試みる。そこに言葉が生まれ論理思考が発達して行くのだ。論理はしかし実在にはなり得ない。それはどこまで行っても実在の説明でしかないからである。

 ここに感性的思考と論理思考の大きな違いがある。しかも感性が深まれば深まるだけ、言葉による説明は難しくなる。論理思考を進めればそれだけで実在は不自然に歪んでしまうだろう。

 感性的思考が高まれば、必然的に人はこの問題に直面するようになる。そこでなるべく論理思考を避けて物事を考えるようになるのである。そこに芸術的思考があると言えよう。

 私はこの芸術的思考を神秘的思考とほぼ同じレベルで考える。ただ大きく違うところは芸術的思考の方がより個的で孤高の思考領域に入りやすいという事であろう。無論それには以下のような理由がある。 

 神秘的思考は、基本的には言葉を使った思考形態を取ったが、芸術的思考は完全に言葉から解放されようとする思考と言えるからである。無論言葉を使う芸術もあるが、この場合、言葉は画家にとっての絵の具のようなものとして使われる。つまり言葉のもつ属性を利用しながら、そこに独自の意味づけをするのである。

 言葉の代わりに芸術家は自ら生み出した様々な表現手段を用いる。この表現手段には言葉のように社会的に制約されたものは何もないのだ。

 ただ逆から言えばこの芸術家によって作り出された表現は、彼独自の創造であって、決して共有出来るものではない。とも言えるだろう。言葉の世界から見れば、この表現手段による思考の伝達はほとんど不可能のように思えるのも事実である。

 しかし言葉という堅い殻を脱ぎ捨てることで、作家は自らの内的世界を自由に表現するという力を身につける事が出来るのである。 私の考えでは、このことは非常に重要な意味を含んでいる。人はここから新たな人間存在としてのステップを踏むのである。

  社会が植え付けた既成概念のためにがんじがらめにされた人々は、この力によってこの既成の観念を打ち破って行く可能性を得るのだ。  あらゆる観念は知らぬ間に自分を形作って行く、言わば卵の殻のようなものである。そして理念思考はその殻に張り巡らされた巧妙な知的ネットワークである。

 その一方で人間はこの殻を打ち破って新たな生命を誕生させるだけの力をもっている。卵の殻を破って出て来た新生の人間の思考はまさにこの芸術的思考の延長線上にあるのである。

 無論、現代の芸術家がすべてこの方向に進んでいるとは言いがたいところがある。

 例えば絵画に見れば、写実画から心象画、具象画から抽象画、さらにはキャンバスそのものを否定する絵画と言うように、表現手段は現状からの解放をもとめて変遷して来たのであるが、しかしいまだ芸術は人間存在の核心に行き着いてはいないのである。

 その主な理由は表現手段にある。様々な形で芸術家は卵の殻を打ち破って来たが、そこに生まれ出たものは、今度は自分の表現手段と言う殻をつけていたのである。しかし多くの芸術家はここで止まっていると言うのが現状だろう。

 表現手段を問題にしている限り、思考は完全に個人の中に閉ざされたままである。けれども自分の作り出した表現手段に言葉のような共有性がないのは当然の事であるために、作家はそれ以上追及しないと言うのが実態なのかも知れない。

 しかしながら芸術の運動は決してここで終わらないであろう。なぜなら芸術家は自分の感性的思考を他に伝えることが出来ない為に相変わらず孤独感を拭い切れないからである

  ところが芸術が高められると、この孤独感はさらに実存の深いところと係わる孤高感へと発展して行くのである。そしてやがては、自らの表現手段をも打ち破らなければならない地点が必ずやって来るであろう。

  なぜなら芸術的な表現手段とは言え、それが虚構である事には変わりがないからである。無論言葉から解放されるという意味は大きいが、依然として問題は残されたままなのである。

 その手段は言葉のように社会共有のものではなく、極めて個人的なものであるために、芸術家は自由に内面の世界に入って行くことが出来る。芸術的思考によって人々は、自然に、言葉の枠からはみ出したより大きな世界を感じ始める。言葉から解放されることで人は本来から持っている自由に気づくのである。

 しかしたとえ言葉から解放されたと言っても、その表現手段そのものに捕らえられている限りは、表現手段は言葉と同じ次元に止まるのである。その表現手段が邪魔をして思考が実在の中に入って行くことはないのだ。

 芸術家は試行錯誤を繰り返しながらやがてそのことを知るようになる。すなわち芸術は表現技術だけでは成功しないことを理解するのだ。そして更にその先を目指すものだけが、やがてそこに何ものからも解放された自身の世界を、すなわち自然の世界と融合した1なる存在としての自身を発見するのである。

 優れた芸術家はそこに実在を垣間見る。そこに起こっている芸術的思考は実在そのものとしての体験となるのだ。

 その世界は神と合致する。そこに存在する芸術は、もはや表現手段を問わない。表現しようという行為も意欲もそこにはない。そしてこの者の実在そのものが芸術となるのである。ありのままに生きることで自然に生み出される絵や唄は、あたかも野に咲く花のように伸びやかに咲き誇るだろう。実在即芸術という地点である。そこに感性思考の極地があるのだ。

 宗教家は神の世界を求めることで実在にめぐり合い、芸術家は自己の世界を求めることで実在にたどり着く。そのいずれの道を進んでも、実在にたどり着いたその時には、言葉に属する一切のものは捨て去られている。自己でさえその例外ではないのである。

 実在はただ体験する事によってしか理解出来ない。そこで生まれる思考はもはや言葉でも他のどんな表現手段でも語り得ないことを知るのである。

  いずれにせよ、宗教的思考にしても芸術的思考にしても、その最も高い次元に至ればそこに没論理思考への世界が開けているのである。この没論理思考は次に述べる。

  ついでに言えば、無自覚の感覚すなわち原感覚による思考は後で取り上げる身体的思考の領域に入って行くことになる。逆にまた感性思考は覚醒することによって思考の次元として最も高い没論理思考に至る。つまり感覚は身体的思考という最も低い次元から、最も高い没論理思考の次元に至るまでの、それぞれの思考の要素として位置付けられるのである。 言うまでもなく感覚は宇宙の根源である意識から生み出されたものであり、上の論理は、思考がその感覚を土台にして成り立っている事を物語っていることになる。

 これまで見て来たように、思考は虚構を作り出すが、その思考自体はこのように感覚によって貫かれ、宇宙と一体になっているのである。そこには実在がある。

 

 

 

  A没論理思考

  (直感・宇宙意識)

 

 情念思考の中でも、論理では表現し得ない思考を没論理思考と呼ぼう。

 思考が働いているにもかかわらずそれをどう表現していいのか分からないと言う体験は誰もが持っている。その中のいくらかは知識不足のためにその考えを論理で代弁出来ないと言うことがあるだろう。またその中のいくらかは、自分の思いを強烈に持ちながらそれを言い表す言葉がないという事もある。そして最もまれには真実を直接体験しているような思考が存在する。

 何度も見て来たように、ことばは実在から一部分を切り取って来たものであって、それは決して実在そのものではなかった。ことばによって組み立てられた思考はその意味ですべて虚構であると私は主張するのだが、それは考えている内容そのことは実在ではないということであった。(花のことを考えても、考えの中の花は実在ではない)

 しかしまれには、それを越える思考が存在するのである。それが直感である。

 直感についてはこれまで何度か述べて来たが、言葉を介さないで直接実在からやってくる。それは実在を全一としてとらえる理解であり、思考と言うよりは実在そのものに入って行く事である。実在としての「私」に気づくことすなわち覚醒することである。

 宗教で言う悟りがこの次元に当たるだろう。

 しかし無論、直感はこの覚醒の世界への入り口に過ぎない。そしてその向こうにより深く没論理思考の世界が広がるのだ。

 無論この思考は私達の日常のものではない。私はそれが可能だと考えるが、論理思考に慣れた私達がそれを捨てて没論理思考に入るのは容易でないのも事実であろう。

 一方で釈迦やキリストのように覚醒した人々の出現も事実だと私は思うのである。

 ところで私達がまれに体験する没論理思考がある。それはひらめきと呼ばれるもので、直感の一つである。

 難しい問題を考え続けていて、論理が行き詰まったとき、何かのきっかけでひらめきが起こり、問題を解決する。こんな例は幾つもあるが、このひらめきは論理への執着があるきっかけで緩み、思考が瞬間、直接実在に触れる事によって起こるものと考えられる。

 ひらめきはこのように瞬間的に現れる直感である。この直感が虚構の中に生きる人間を実在の中に引き入れる働きをしているのだ。 実際、論理(ことば)には限界がある 。私達はその論理を使って世界を見極めようとするが、当然のことながらその試みは限界を超えることができないのである。このとき論理の外に出て実在をつかむ働きをするのが直感なのである。そして人間はこの直感のつかんだ真実を論理を使って言い表す工夫をする。かくして我々は一歩ずつ実在の中に認識する世界を広げて行くのである。ここに科学や文化の発達して行く重要な要因があるのだ。

 一本の木に例えれば、論理は木の中心を成す木部にあたり、直感は木の生長点にあたる。人間社会はまさにこの木が成長するように外へ外へと世界を広げて行くのである。

 直感は実在の世界を直接理解する思考である。先に見た宗教的思考はこの実在を神という言葉に置き換えて思考を組み立てて行くが、思考がより真実に向かおうとすると、必然的にこの神と言う存在に対するとらえ方が変わってくる。

 つまり、神を言葉としてとらえる次元から神という言葉の指し示すものへと意識の向かう対象が変わってくる。その方向は明らかに言葉から始まり、やがて言葉の指し示すものそのものに向かう。そしてついには言葉そのものを越える地点にやってくるのである。

  あるいは感性的思考について言えば、言葉から解放されたより自由な世界を得る。人はその中で自分の内に起こってくる感性をそのまま体験し、世界を認識するのである。

 しかしそれでも、そこにはいくらかなりとも実在からの距離がある。それは実在そのものとは言えないのである。

 私達が実在そのものに立ち至ったとき、そこには実在と認識の間にいささかの隙間もない。そこでは実在が認識であり、認識が即実在であるような完全に一体となった存在に至るのである。

 ただ上の記述には間違いがある。実のところは実在と認識が一体になるのではなく、認識そのものが消え去るのである。

  認識は、私との関係で認識対象を理解することであったが、その私という存在が実在の中に消えてしまうのである。そこにあるのは私との関係ではなく、ただ実在そのものとなるのだ。

 つまり没論理思考においては、認識主体そのものが無くなってしまうのである。したがってそこでは、私空間という世界も存在しなくなる。そこにはただ公空間のみの世界があるばかりである。 認識主体のいない思考などというのは、思考とは認めがたいかも知れないが、私はあえてそれを、人間が達する事のできる最高の思考と見なす。

 没論理思考によって、人は私空間を超越し公空間に至る。しかし実際には公空間に至るのではない。私達は既にもともとから公空間にあったのである。ただ私空間が消え去ることによって公空間が見えて来たというにすぎない。

  その公空間の中では、私達はどこからどこまでが自分だと言うような区別を完全に失い、全てが一つの存在に解け合う。それはただ存在し続けているのである。

 実在はこれまでに一度も生まれたことがなく、また死ぬこともない。すなわち実在は始まりも終わりもない全一の存在なのである。 この実在の上に認識主体が生まれ、私空間を作り出す。これはあるいは実在が見る夢だと言っていいだろう。思考の虚構性はまさにこのことを裏付けているのかもしれない。

 夢を見始めた実在はやがてその夢から醒めて実在そのものに帰って行く。この流れの中で何が起こっているのだろうか。そこに目をやれば、無自覚→自覚→覚醒という意識の変化に気づくだろう。

 最初実在はただ無明の中でうごめいている。そのうごめきそれ自体が持っている「感じ」を感覚として自覚するようになると、それが夢を生み出す要因となる。しかしこの夢も、やがては覚醒する。目覚めによって人は実存そのものを理解するようになる。

 この一連の流れは、無明の実在に光が当てられ、やがてその実在が私達の気づきのもとに現れ出るその過程を示しているのである。 こう考えてくると私達には、はるか実在を越えた所に気づきという存在が見えてくる。この点については次章で取り上げることになるだろう。

 ともあれ、この実在の夢の過程こそ、私達が今たどっている思考のそれぞれの形の中に見えてくるのではないかと思うのである。

 のしてんてん系宇宙の構造から見ると、夢の始まりは実在の中に人を形作るエネルギーの相関性が生まれた時点と考えられる。

 この相関性の力と宇宙の力の働きによって、あたかも宇宙の泡のように世界から分離する形で半閉鎖的な塊が出来上がった。これが人である。実在=宇宙と人の接点に感覚が生まれ、これを自覚することで人は「私」を作り出して行く。すなわち認識主体が生まれるのだ。 認識主体は夢を作り始め、やがてそこに私空間と言う大きな夢空間を形作るのである。それはまさに実在の見る夢と言えるであろう。 思考によって夢はあたかも生きているごとくに動き出す。私空間は成長し躍動するのだ。

 ところがこの思考世界とも言える私空間に隠された虚構性に気づき始めたときから人は覚醒の道を歩み始める。

 真実を求めようとする熱意は、やがて夢を作り続けている「私」、すなわち認識主体の存在に気付くようになるだろう。真実を求めながらしかしその真実から人を遠ざけていたものは、事もあろうかそれは自分自身であったのだ。

 ここに至って人は覚醒する。覚醒とは実在の目覚めである。覚醒した意識は実在と戦うことをやめるだろう。自分は実は実在そのものであったのを知り、ついには実在に帰って行くだろう。そこには苦悩も苦痛もない、欲望さえ消え失せた世界だけが残るだろう。

 完全に「私」は失われ、実在のままになる。今まで欲望と思われていたもの、たとえば食欲や性欲なども、本当のところは実在の一つのうごめきであったのだ。それを私の欲望と思い始めて夢が生み出されたのである。

 人は覚醒に至って、もはや一切のものに区別をつける必要がなくなる。そこから生まれる没論理思考は、分別は意味をなさない、まさに無分別の世界としての理解から始まる。

  没論理思考は、認識主体=私そのものが存在しない思考であり、したがって思考はもはや私を越えた、実在そのものの思考とも言える。言わば純粋な意識、覚醒した意識として理解することが出来るだろう。この没論理思考のうち直感は、いまだ私=認識とのつながりを持った思考である。それは言わば私の影を残した没論理思考なのである。

 あるいはこうも言える。すなわち相関性によって閉ざされた人としての存在、すなわち1なる存在としての覚醒である。1なる存在である私の身体に生まれる感覚の全般にわたる自覚なのである。

 思考の成長はやがて次の次元に到達する。すなわち私をも含めた宇宙全体としての覚醒である。そこではもはや私は完全に消滅し、永遠の命となる。それこそが宇宙意識であり、私達の終着点となるものである。

 宇宙意識への覚醒によって、始めて私達は自分が何者であったかを知る。そこには至福以外のなにものも存在しない。

 私達はここに、思考が生まれる前の無=実在とは違う大きな隔たりを見ることが出来るだろう。

 つまり実在から思考が生まれ、覚醒して実在に帰るこの道程は、もとの木阿弥になるというのではない。

 実在は思考の過程をへてようやく覚醒する。覚醒しない実在はただ闇の中の蠢きに止まり、エネルギーの葛藤を繰り返す。覚醒しない限り実在は無明のまま存在するしかない。覚醒に至らない魂は何度も生まれ変わり、同じような苦悩を繰り返すと言うような宗教的な考えは、この事を教えたものだと私は考える。

 さて私達はここから一気に下降して無明の実在、すなわち思考が生み出される地点へと目を向けて行こう。私達がたどって来た思考のその入り口とも言うべき、実在の世界、そこに身体的思考が存在する。

 

 

     4.身体的思考

 

 身体的思考は本来、思考と呼びにくい無自覚の領域における思考である。しかし思考をエネルギーの波動としてとらえるならば、これらもまた一連の思考であると考えて差し支えあるまい。

 ところで無自覚の思考の中にも、その次元によって幾つかの形に分けることが出来る。

  その一つが習慣による思考である。一つの思考が習慣化することによって無自覚の領域に退化する。これを習慣的思考と呼ぼう。

 二つめには無自覚の感情による思考である。そもそも感情は自分自身の体内に生まれる「快・不快」の延長線上に生み出されるものであった。身体的「快・不快」は自分が存在する限り生まれ出てくるのであって、つまりそこには当然ながら無自覚の感情も存在する訳である。「快・不快」は人間が生まれると同時に存在しその成長を促して行くもので人間が成り立つ根本原因の現れとも言える。そこでこれに付随する思考を身体思考と名付けることにしよう。

 三つには感覚による思考がある。言うまでもなくこれは体感するすべての感覚によって得られる体験としての思考である。自覚された感覚を感性と呼んで自覚されない感覚と区別したが、ここではまさにこの無自覚の感覚を見る。これを原感覚思考と呼ぶ。

 そして最後に無的思考を加える。これは私達が第三部で見て来た無感に対応する。すなわち快感と不快感の間に存在する無感という領域による思考である。

 私はとりあえず、この四つの思考形態を提出する。それを以下見て行くことにしよう。

 

 

 (習慣的思考)

 

  私達の日常をよく観察して見ると、自覚なしに動いていることが思ったよりも多いことに気づくだろう

  確かに私達の生活のほとんどの部分は習慣によって動いている。 毎日決まりきったように朝の洗面をし、決まった時間に食事をして家を出る。いつも変わらぬ光景を見ながら職場に入り机に向かう。決まった時間に退社して、同じ道をたどって家に帰る。この生活のリズムの中で私達は一体どれほどの自覚をもって思考を働かせているだろうか。

 あるいは頭の中が何かの心配事で一杯のため、繰り返しその心配事が浮かんでくる。気がついたらいつの間にか駅のプラットホームに立っていたと言うような経験はいくらでもある。

 こんなことが出来るのは、家から駅までの慣れ親しんだ道だからである。これが初めての道であったとするならば、彼に同じ心配事があったとしても、注意は道程のほうに向けられて心配事は二の次になるだろう。道を間違えないように一つ一つ目標を確認しながら、進んで行くに違いない。彼はそのために心を使い、思考はその為に注意深く働いているはずである。彼の思考は現在この瞬間の自分の行動と直結していて、明確な自覚のただ中に有る。

 これと同じように、私達は何事でも最初は注意を集中させてその事に対応し、思考を働かす。そしてそこには思考に対する明確な自覚が存在するだろう。

 しかし同じことを繰り返すとそれが習慣化され、その思考に対して一々注意を払っていなくても、正確に行動出来るようになる。つまり惰性で行動するようになるのである。

 すると当然、思考は別の関心ごとに向かい出すだろう。人は歩きながら気にかかる仕事のことや、生活上のあれこれを考え始める。今この瞬間を自分が何をしているかはそっちのけで、思考はそれとは無関係に働き始め、様々な空想を巡らすのだ。このとき無自覚の方に押しやられる思考を習慣的思考と呼ぶのである。

 ただ習慣的思考が思考として成り立つのかどうかについては、少し議論が必要だろう。

  信号は赤で止まり、青で進む。これは私達が子供のころから教え込まれた社会の取り決めである。そこで私達は道路を歩いていると必ず信号機の前で判断を迫られる。少なくとも信号の色を判断しなければ安全に道路を歩くことは出来ないだろう。ところが考え事をしていて知らない間に信号を通り抜けてしまっている事がある。後で気が付いて、どのようにして道路を横断したのかどうしても思い出せないと言うようなことも決して珍しいことではないだろう。とにかくこうした事例は身近にいくらでも見つかるはずである。

 果たしてこの時、思考は働いていなかったのだろうか。私はしかし、思考が働いていなかったとはどうしても思えないのである。もし思考が働いていないとしたら、人はどうして信号機を判断出来るだろう。どうして道を間違えずに進めるだろう。

 習慣がそうさせると考えたとしても、それで思考の存在を否定出来ないはずである。なぜならその時は習慣が思考の働きをしない限り道を正確に進むことが出来ないからである。つまり思考が習慣という言葉で言い換えられただけのことであって、議論としてあまり意味をなさないだろう。

 また信号を見分けるのは、単なる条件づけであって思考ではないと言う考えも出てくるだろう。彼はただ無自覚のうちに条件反射しているだけだとも言えるのである。

 私はそれを否定するものではない。逆に私は条件反射もまた思考の一つだと言いたいのである。 そもそも思考は条件反射の積み重ねられたものだと私は考えるのだ。例えば論理的な思考が成立するためには条件反射がなくては考えられない。AならばB、BならばC、CならばD、論理はこのように次々と条件を判断しながら結論を導き出す。この中には明らかに条件反射が含まれているのである。 例えばAならば何の疑いもなく自動的にBという考えが生まれると言うような事例はたくさんある。青なら進み、赤なら止まるとか、一人の男と言えばたいていの者が成人男子を思い浮かべるなど、数えればきりがあるまい。この惰性的な思い込みの思考は、条件反射といっても決して言い過ぎでは有るまい。

 思い込みの強い考えは、いつも同じところで間違って正しい答えを導き出せないと言うようなことが多い。これは、この思い込みの部分で条件反射しているからに外ならないだろう。最も理性的であるはずの科学者でさえ、その研究の中にこのような事例を見出すことはそう難しいことではない。

 つまり条件によって思考が動いている訳であって、そう考えるなら結局のところ条件反射は思考の一形態だと言い得るのである。

 条件反射こそ習慣的思考の現れと言うことが出来るのである。

 私の見るところ、習慣に陥っても、思考は働いているのだ。ただその思考は自動的に働いているために注意はどうしても緩慢になってしまうだろう。このために興味は自然、別の考え事に移ってしまいがちになる。こうして注意が外に向かうために、この習慣的思考は自覚されないまま、まさに自動的に働いていくのである。

 こうして何度も繰り返して習慣的になった思考は、自覚しなくても習慣どおり働くのだ。

 改めて自分の思考に目を向けてみれば、習慣化した思考の多いことに驚くだろう。何げなくしている動作や判断のほとんどは習慣的思考と言っていいだろう。ふとしたことで自分のしていることに気付いたり、ぼんやりして居るうちにふと我に返ったりする。すると夕食を何にするか考えていた自分に気付くといったようなことはいくらでもあるだろう。

 これは気付いたときに突然その思考が始まるというのではないはずである。そのような考え方はあまりにも不自然であるし、合理的ではない。そうだとすると思考は確かに自分の気付かない所でも起こっているのである。 

 わたしの見るところ、習慣的思考は条件反射的であり、しかも論理的な要素をもっている。つまり習慣的思考は理念思考の仲間なのである。理念思考が習慣化し無自覚の内に進められる思考こそ習慣的思考と言えるだろう。

  概して理念思考は、真実に対してそれを正面から説明しようとする思考である。それゆえにまた真実から最も遠い思考だとも言えたのである。理念思考はただ真実を指し示すことしか出来ず、決して真実そのものに成り切ってしまうような思考ではなかった。

 ところでこの習慣的思考に対してもまた同じことが言えるのである。自覚を伴わない思考ではあっても、それは結局理念思考が習慣化したものに過ぎないのであって、注意の向けられないところで思考は続けられているのであった。

  しかしまたこの思考は決してそれ以下の次元には下りて行かないと言うことも見ておかなければならないだろう。以下の次元というのは次に述べる身体思考のように、頭脳の働きとしてはとらえられない思考を念頭においている。

 つまりこの習慣的思考は理念思考とつながって一つの思考の領域を作るのだ。結局の所、それは頭脳の働きによる思考領域なのである。

 あるいはこうも言えるだろう。すなわち習慣的思考も実は理念思考なのであって、それは自覚しているか無自覚かの違いがあるに過ぎない。理念思考がそうだったように、習慣的思考もまた典型的な虚構の空間を作り出すのである。したがって習慣的思考は理念思考がそうであったように、決して虚構の世界から出ることはない。つまり実在に至る事はないのである。

 この領域の思考は最も人間的な思考空間とも言え、本来、思考と言えばこの領域を指すのは当然かも知れない。

  実際この理念思考が言葉を作り出したのであり、ものごとを指し示す概念や抽象的な論理を生み出し、すべてのものを説明可能な世界に変えようと働く。言葉によって世界を区分し、際限無く小さな単位に世界を分別して行くのである。これが理念思考の最も大きな特徴と言うことが出来る。

 そしてこのことが逆に虚構性の源となっている事を私達は見ておかなければならないだろう。

 この思考は身体とはかかわらない、純粋に精神的な思考と言うことが出来、最も人間的な思考世界を作り上げているのである。

  結局習慣的思考は理念思考の一部であり、ただ無自覚の闇の中に押しやられているだけであって、注意を向けさえすれば再び明確な理念思考として浮かび上がる思考なのである。

 

 

  

    (身体思考)

 

  習慣的思考が理念思考の一部として考えられる思考だったのに対して、身体思考は感情的思考の一部として理解することが出来る。  すなわち身体思考は自覚されない感情による思考なのである。しかも身体思考は、感情の構造そのものに対応し、最終的には実在そのものである意識に直結して行く思考と言うことが出来るのである。

  私達はこれまでに感情について、触れて来た。(第3部)それによれば感情は、認識主体と、認識対象との相互関係から生み出される善し悪しの判断がその基本となる。そしてこの関係を感じ取るための最も根本的な装置は、私の内に生まれる快感と、不快という二つの相反する実感だったのである。これを私達は身体的「快・不快」

と呼んだ。

  この身体的「快・不快」なる実感は、人が生きている限り常に自分の身体に感じるもので、言わば生命感とも言えるだろう。まさにこれは生命活動に対する身体の感応なのである。それは表現以前の体験そのものである。人はそれを「感じ」として受け取るのだ。

  「快・不快」の現れる仕組みは、宇宙の運動と身体の生命活動という二つのエネルギーの相克にある。

  生命活動が宇宙の流れに従う時には快感が生まれ、それに反するものに対しては不快感として受け取られる実感が存在する。この快感と不快感はシーソのように交互にリズムを取りながら現れ、その結果新陳代謝が進み、身体が成長して行くのであった。

  この身体的「快・不快」はやがて精神的「快・不快」に発展し、認識とあいまって感情を生み出すのである。

  感情の背後には、まさにこのような人間存在の最も根源的な部分に連なって行く生命のシステムが隠されているのである。これらの中には自覚されないままで存在している身体的「快・不快」も十分考えられるのである。

  そこで感情による思考には、私達が日常的に体験するいわゆる感情的思考と、無自覚な感情の領域に存在する思考が考えられる。

  このうち後者を身体思考と名付けるのである。身体思考の最も深い部分に身体的「快・不快」が存在する。これは、生命を維持し成長させる為のもっとも基本的な装置だと考えられる。

  したがってたとえそれが無自覚の中にあったとしても、身体は自ら成長するための生命の実感を「快・不快」として判別していると考えられるのだ。私はこれもまた思考だと主張するのである。

  例えば生まれたばかりの生命にとって、「快・不快」の判断は明らかに無自覚の闇の中に閉ざされている。それは全くの無自覚のままに営まれる生命活動そのものである。

  この「快・不快」はまだ精神的「快・不快」が生み出される前から、この私を正しい道に導いて行こうとしており、そこには確かに快感の方に進もうとする身体的な判断がある。まさに身体的な思考と言うべきなのである。 

  生命はその本性として、快感と不快感と言う二つの実感を持つ。身体は様々な外界との交渉を持ちながら成長して行く。その過程において身体的「快・不快」は休む事なく反復運動を続けるのだ。そこに思考が生まれているのである。

  この思考は理念思考のように、精神的な思考とは言えない。しかし、自分の身体に生み出された実感を判別し選択しながら成長して行く過程を見るならば、そこには明らかに思考の形態が存在しているのである。ただその思考を自覚していないだけのことなのだ。これを思考としてとらえるのは当然の事であろう。

  身体的「快・不快」を基礎にしていることから、この思考を特に身体思考と呼んだのである。

  ところでこの身体的「快・不快」も厳密に考えるならば、その構造の中にすでに虚構性を持っている。なぜならそれは、既に述べたように「快・不快」そのものが生命活動における身体の関係を示しているからである。

  関係はものごとの状態を示すもので、それ自体は真実そのものではない。真実はその関係を生み出している身体の方にあるのであって、身体の実感が関係として把握され始める所から虚構性が生み出されて来るのである。

  無論、認識さえ生まれていない次元での「快・不快」は私達が考えているような形で存在する訳ではないだろう。この次元には「快・不快」と言う言葉そのものがまだ生み出されていないのであって、まさにこの意味で関係そのものを実感として感じているに過ぎないだろう。したがってそれを虚構というのは言い過ぎかもしれない。  けれども、もしそこに何らかの判断、あるいは選択があるとするなら、つまり快感を求め、不快感を避けるというようなシステムが存在するなら、そこには確かに虚構性の芽が生まれていると見るべきであろう。

  そしてもし、逆にこのような判断が一切存在せず、すべてが自動的に動いているだけの活動が生命のすべてだとするなら、そのような構造の中から精神的な思考の生み出される糸口を見いだすことはほとんど出来ないのである。

  全てが自動的な生命運動からは知性は生まれない。人間に知性が生み出されるのは、この身体的「快・不快」の中に既に個体としての選択判断するシステムが芽生えているからにほかならないであろう。身体思考における虚構性は、まさにこの身体的「快・不快」の構造によるのである。身体的「快・不快」はやがて知性を伴い、精神的「快・不快」を生み出し、身体思考を精神思考へと発展させるのである。 

  「快・不快」の生まれる前にはただ意識だけがあった。(第2部)

意識は生命の最も深い源であったのであるが、身体的思考はやがてこの意識に至って実在に溶け込んで行く。あるいはここが人間の入り口とでも言えるだろうか。まさにそこは宇宙と人間との接点なのである。

  思考は実のところこの接点から生まれてやって来た。思考とはエネルギーの交錯と変遷そのものであり、行為の一種だと考える私の必然的な結論がここにあるのである。

  本来思考は虚構としてとらえられる。事実私達は様々な思考の形態の中に虚構性を見てきたのであった。しかしながら、ここに至って思考を虚構としてだけではとらえ切れない問題が出てくる。

  意識という実在そのものの中から知性が生み出される。それは同時に認識の発生でもあるのだが、それは言ってみれば実在を大地に見立てたとき、そこに虚構を生み出す思考が双葉のように芽を出すと言うようなイメージとして理解される。この時私達は思考という双葉だけを取り出して考えることは出来ないのだ。仮にそうすれば双葉は枯れてしまうしかない。大地無くして双葉は何の意味も持たない。実のところ両者は一体のものなのである。

  思考は虚構性を持つ。虚構を一種の影だと理解するならば、その影を作りだす実体が無くてはならない。それこそが実在なのである。

まさに思考とは実在の影なのである。

  実在の中に個としての存在が現れると、そこに様々な関係が生み出される。この関係こそ実在の影であり、思考の出発点なのである。

  この意味から言えば身体思考は虚構と実在が最も接近して一つになる地点として理解することが出来るだろう。

  思考はまさにここから始まるのである。

  私達は身体思考を見て行くうちに、思考の最も原始的な部分に立ち至った。この領域は宇宙空間から人間が生まれるその瞬間を含んでいるのである。

  この思考の原点は、次に見る原感覚思考と無的思考にも現れるはずである。先へ進もう。

 

    (原感覚思考)

 

  原感覚思考はすでに見た感性的思考と一つのまとまりを作る。

  また一方で、この思考の基本的な要素は身体に現れる様々な感覚に基づいており、これもまた身体的思考である。

  感覚とは体の各所にある感覚器が外界の刺激に感応して、世界を実感し体験する装置である。私達が今まさに感じている存在感、生命感、身体感と言った体内経験はほとんどこの感覚によっていると言っていいであろう。 

  このうち自覚された感覚思考を感性的思考と呼んだ。これはすでに見て来たように情念思考の一つであって、思考の最も高い次元に至り、私達を覚醒に導いて行く可能性を持っていたのである。

  一方自覚されない感覚思考をこの感性的思考と区別した。ここで取り上げる原感覚思考はまさにこの、無自覚の感覚思考を指しているのである。言わば原感覚思考は、体内に生まれていながら未だ自覚されない思考なのである。

  ところで感覚は視覚のように明確に世界を指し示すような精神性の強いものから、痛覚のように極めて身体的なものまで、様々な広がりをもっている。それは全身に存在する体感と言えよう。

  感情は「関係」と言う虚構の芽をその内に持っていたが、感覚はそれ自体一つの実感としてとらえられる。つまり感覚は身体的「快・不快」とほぼ同次元に存在する身体の実感をベースにしていながら「快・不快」のような対立する概念をもたない。まさに実感そのものと言うことができよう。その意味で感覚は感情に比べてより実在に近いと言うことが出来るのである。

  ところで視覚や聴覚は、感覚器の刺激による実感が即座に世界を認識させる。これは感覚が瞬時に、理念思考とつながっている事を示しているのだが、私達はこれをもって、視覚を感覚としてよりも、

世界の認識そのものとしてとらえてしまう傾向があるだろう。

  しかし原感覚思考においては、そういうわけにはいかない。視覚はただ分化されない光としてとらえられているに過ぎないのである。家を見ても家とは認識せず、花を見ても花とは感じないぼんやりとした視覚。目にやってくる光景はただ意味のない光の集まりとしてとらえられるばかりである。そこに純粋な感覚としての視覚の実感があるのである。あるいは既に例示したように、認識の周辺で自覚されないまま消えて行く原感覚もある。     

  このように原感覚思考は、目にやってくる光が認識されないまま全くの未分化でとらえられる為に、それを特定の光景としてとらえられることはない。

  つまり目にするものは何であれ、それを山や川と言うように視覚に広がる背景を様々に区分して見ているのではなく、光景のすべてが未分化のまま、ただ一つのものとしてとらえられる訳である。

  意味付けられない光による感応だけが身体にあって、しかもそれは自覚されないまま体内に残されている。これが原感覚思考である。

  しかしこの体内に生まれた無自覚の視覚は、自覚されると、とたんに意味を与えられ分化が起こる。世界が認識されるのだ。こうして視覚はそのまま私空間を広げて行くのである。

  意味が与えられると言うのは、そこに認識主体が働いている事を表している。そもそも「意味」と言うのは、主体=私にとっての関係、意味付けの事であって、主体がなければ意味だけがそこにあるというようなものではない。世界はただ起こっているだけであり、そこに意味など存在しない。ただ「私」という主体のみが意味を必要とするだけなのである。このことを私達は充分に理解しなければならないだろう。

  このことから言えば、無自覚の感覚というのは、認識主体を欠いた所に生まれる実感だと考えられる。つまり原感覚思考は認識主体である「私」がまだ生み出されないその前から働いている思考と言うことができるだろう。

  ところで私達は普通、目にしたものを何であるか認識しようとする。それが得体の知れないものなら、注意は一層その物に引き付けられるだろう。これは何なのかと言う問いかけが視覚を通して引き起こされやがて新発見されたものに命名するだろう。

  新たな生き物なら、それが何類に属するのか、どんな生態系をもつのか、観察と研究が続き、この得体の知れないものがついに人間の知識の一端に加えられる。

  この過程の中で、視覚の働きは群を抜いている。視覚無くして観察はあり得ないし、その生き物の存在すら知ることが出来ないのは言うまでもないことである。こうして視覚は、言葉を使う理念思考に最も密接につながって行くのだ。

  人は見たものを真実と考える強い傾向がある。見たものは言葉よりもはるかに現実的だと考える。まさに一見は百聞に如かずと言えるだろう。

  無論これには理由がある。もともと言葉は人間が作り出したものであるが、感覚は最初から自然に備わっている人間の特性だからである。したがって感覚はそれ自体ですでに全てを表していると考えられるが、言葉はそういう訳には行かない。

  視覚や聴覚など様々な感覚が働いて、人は自分とそれを取り囲む世界を実感して行く。しかし一方、言葉はその実感された世界を説明し、表現しようとして生み出された手段の一つに過ぎないのである。

  前者は実感の体験であるの対して、後者は単なる表現手段であるというこの違いは大きい。およそ一瞬の体験であっても、それを百言して表そうとも足りるのもではないだろう。

  言葉はもともと真実とは無関係な記号でしかなかった。したがって言葉は見たものの一部分は伝えるが、しかし決してすべてではない。人はそのことを充分知っているのだ。

  つまりこう言うことが出来る。人間がこの宇宙に身体を得たとき、

同時に感覚が発生して、世界と自分を体験し始める。宇宙エネルギーのただ中に身体が生み出され、その体にちりばめられた感覚器がやってくる様々なエネルギーに感応しその存在を実感する。人間はこのように自分を取り巻く世界のありようを、感覚を通して体験するのである。それは、まさしく体験でしか知り得ない、知覚以前の思考なのである。

  やがて人間は自分の体内に生まれる感覚を自覚し始める。目に映る光景や耳に聞こえる様々な音、肌に感じる圧力や痛み、臭気や味覚、これらの刺激は自らの生活に直接的な関係をもち、自覚した人間にとっての最も身近な知覚の対象となって行くだろう。

  知覚が働き始めると、世界は細かく区分されて行く。言葉はまさにその区分を言い表すために新しく作り出される。例えば花と言う言葉が細分されると、花びらや花粉と言ったような言葉が生み出される。さらに区分が進められると、細胞、タンパク質、核酸、分子、

原子と言うように、新たな言葉が無限に生み出され続けるのである。

言葉はこのように知性によって限りなく作り出される人工の産物だとも言えるだろう。

  ここで原感覚思考と言うのは、この言葉が生み出される前から存在していることに注意を向けなければならない。

  人間は個体として生み出されたその瞬間から、世界と自分という境界の線上で繰り広げられる二つの世界のエネルギーの交流を実感し続ける。合流、離反、融合、対立、迎合、反発、様々な関係が世界と人間双方の間で繰り広げられる。感覚はまさにこの宇宙エネルギーの波動を、ただ無批判のままに実感し続けるのである。原感覚思考はここにあるのである。

  人間を宇宙という視野から見ると、大海に生まれた一つの泡のような存在であった。

  大海に海水が満ちあふれているように、宇宙にはエネルギーが充満している。私はこのエネルギーを宇宙意識と呼んだ。そして相関性の働きによって、この宇宙意識の中に1なる存在、すなわち私達の身体を作り上げるのである。

  身体はその内部に宇宙意識を取り込み、そこに海に浮かぶ泡のような自己意識の領域を作るのであった。(第三部)

  そして感覚はこの泡の表面にあたる部分に相当して、自分と外の世界すなわち宇宙意識との間に生まれる相克を捕らえる。つまり感覚は自己意識と宇宙意識の攻め際に生まれるエネルギーの相互作用そのものであり、人はそれを「感じ」として受け止めるのである。

感覚とはこのようなエネルギーの波動に外ならない。

  もっとも感覚は身体の表面にあるこのような実感だけに限られるのではない。つまり身体の内部に起こるエネルギーの交錯と揺らぎに対しても実感としてとらえるのだ。この実感は、身体がここに在るという存在感であり、いわゆる身体感覚である。

  この存在感は自己意識が作り出す。それは生命活動に伴う自己意識の揺らぎ、すなわちエネルギーの波動であり、そしてこの波動そのものが感じとして体験される。ここに私がいると言う感覚は、この波動に対する実感そのものなのである。こうした実感に対応して、身体思考が生じると私は考える。

  ところでこのように、原感覚思考はエネルギーの波動そのものとしてとらえられる。するとここでは、虚構は存在しないと言うこともできるだろう。なぜならそれはエネルギーという実在以外の何物でもないからである。実在そのものを体験する。その体験の中に虚構はやって来ないのだ。

  要するに原感覚思考は実在そのものである。そしてそこで人が実感として体験しているのは、変動する実在の揺らぎそのものだと言えるのである。

  前節では身体思考は宇宙と人間の接点から生み出されると書いたが、ここで言う原感覚思考は、まさにこの接点そのものだと言えるのである。

  ここで付け加えておくならば、第三部では実は身体の表面に現れる感覚、いわゆる感覚器によって体験する実感のみを感覚としてとらえたのだった。

  したがって体内の実感をただ身体的「快・不快」として理解したのであったが、私はここでさらに感覚の領域を広げている。つまり感覚を、感覚器による体験に止まらず、身体自身がもっている体内の実感にまで押し広げたのである。これを身体感と呼んだ。

   感覚とはエネルギーの波動そのものが持っているうごめきを、「感じ」としてとらえたものと考えるならば、感覚は当然最後には体内のエネルギーの揺らぎそのものに行き着いてしまう。それは感覚が自己意識と宇宙意識の相克による揺らぎだけには止まらず、自己意識そのものの波動にまで及ぶと言うことを意味しているのである。                             

  このように感覚の領域を拡張したのは、感覚を無自覚の感覚=原感覚にまで広げて考えたからである。

  ちなみに身体的「快・不快」はこの身体感を善し悪しで色分けしたものと考えられるのである。身体感は体内に存在する自己意識の揺らぎを体験としてとらえたもので、言わば自己意識それ自体の存在を感じとして実感する体験なのである。

  原感覚思考は、このようにエネルギーそれ自体を感じとして受け取り、そこに何らかの存在感を体験する。するとこのことは、自己意識の体験としての身体感に止まらず、ついには身体を越えた宇宙意識にまで思考が及んで行く可能性をはらんでいるのである。 

  ここで注意すべきことは、これらの思考は無自覚の世界で行われている存在の実相だと言うことである。

  わたしはこの意味で実在という言葉を使う。没論理思考で述べた覚醒とは、この身体思考として現れる実在をくまなく自覚することによって実現すると言ってもいいのである。

 

 

   (無的思考)

 

  思考の形態の最後に、私は無的思考について考えて見たい。

  この言葉はいささか逆説的な感じがするが、しかしそこには思考全体を支える重要な内容が隠されているのである。

  無的思考とは、思考と思考の隙間と考えれば理解しやすいだろうか。思考を一つの行為と見なすならば、無的思考は不作為の思考と言うことも出来るのである。

  上に投げたボールは間もなく下に落下する。この時、上昇と落下という二つの運動の接点に、全く動かない一点が存在する。上るのでも落ちるのでもない。ただ中空に静止した瞬間がそこにある。

  無的思考はこの静止したボールに似ているだろう。

  このボールの静止は通常私達に認識されないように、無的思考はたとえ自覚された思考の中に在っても、それのみを取り出して認識されるような事はまずないのである。

  虚構性のもっとも強い理念思考に目を向けて見れば明らかなように、思考は次々と頭の中で変転する。一つの研究に没頭した頭脳でない限り、ただ一つのことを考え続けることはほとんど不可能思われる。それほど思考は目まぐるしく飛び回っている。これは自分の日常を振り返って見れば、だれもが納得する事実であろう。

  私達はAについて考えている時でも、ふと何かが目に止まって、突然Bについて考え始める事がある。するとそこからCという考えが引き起こされ、またもや何かの刺激を受けてDについての考えが起こって来る。そのうちに我に返って、またAについての思考に戻ると言ったように、思考は目まぐるしく変転して行くのである。

  ところで私の言いたいのは、この時、それぞれの思考が流れて行くその合間には、常に無的思考が存在していると言うことなのである。

  テレビのチャンネルを切り替える時に、一瞬画面が消えてしまうように、思考によって広がっていた私空間は一瞬間無となる。次の思考が即座にやって来るために、私達はほとんど気づかずに生きているが、実はまさにこの瞬間、私空間は消え去っているのである。  そこに無的思考が存在するのである。

  もし私達がこの目まぐるしい思考を停止させることが出来たなら、そのときそこには私空間の存在しない世界が出現するだろう。そこはまさに実在そのものとしての、公空間が出現している事になるのだ。

  それは言わば思考の裏返しとして理解することも出来るだろう。すなわち思考が私空間を作るとするならば、無的思考は公空間そのものの思考なのである。そこには認識主体たる私そのものが無いのだ。

  したがって無的思考は自覚されることがない。なぜなら無的思考自体がすでに自覚の主体たる「私」を伴わないからである。自覚とは、この私が自分で自分の思考を知る事であるが、それを知るべき私そのものが存在しない限り自覚はありようがないだろう。

  Aという思考にしても、Bについての考えであっても、私達が発する思考はどれでも、そこに思考する主体としての私が存在する。  しかしAとBの思考の間と言うのは、Aの思考の終わりと、Bについての思考の始まりの接する部分であって、これはどう考えてみても無でしかあり得ない。もし何らかの思考が存在するとすれば、それはただAとBの間にPという思考があるというだけで、そうなればAとPの思考の間という同じ問題が出てくる訳であるから、結局AとBの間に新たな思考が存在するとは考えられないのである。そこにあるものは、無でしかない。

  思考はエネルギーの波動だと私は考える。するとこの無は波動の0の地点を意味している事になる。思考が宇宙に生まれた一つのエネルギー波だとするならば、その波のエネルギー的に0の地点は必ず存在する。それは思考と思考の間にあり、感覚の生み出されるその一歩手前にあり、快と不快の中間に存在するのである。

  このことを具体的に見てみると、たとえば感覚的思考についてはエネ
ルギーの関係は右の図のよう
になるだろう。

  感覚は刺激をうけて大きくなったり小さくなったりして図のように波動を繰り返す。(第三部)

  このときの無とは図の意識の地平線を指す。これは身体の内側に存在する自己意識そのものと言えるだろう。

  あるいは「快・不快」についてみれば、それは快感と不快感の中間に存在する。快と不快の入れ替わるその中間、それは振り子の運動に似ているだろう。快と不快の両端を行き交う振り子は快から不快に移行するとき、あるいは不快から快に変わろうとするその瞬間に振り子が停止する。この地点こそ無なのである。私達は第三部で、

快感と不快感の間に無感と言うものを設定したが、まさにこの無感を指すのである。

  こうして見るならば、無的思考は、私達がこれまで見て来た様々な思考の全ての隙間を埋め尽くすように存在していることが分かってくるだろう。あたかも宇宙は物の隙間を空間が埋め尽くしているように、無的思考は生まれくる全ての思考の隙間に充満しているのだ。  そしてそれは何かと問うならば、そこにあるものは意識しかないのである。それは言うまでもなく宇宙を満たしている意識そのものを指す。私はそれを宇宙意識と呼んだ。

  実のところ人間はこの宇宙意識を体内に取り込んで自己意識を作る。このとき宇宙意識の波動と自己意識の波動にはあるずれが生じているのである。

  この波動の違いが、感覚や「快・不快」の正体であったのだが、無感はこの両者の波動が同調することによって、自己意識が宇宙意識の中に溶け込んで行くことによって得られる実感なのである。

  すなわち無感とは宇宙意識そのものの実感だと言っていいのである。結局のところ、無的思考は自己意識を越えて宇宙意識に溶け込んでいく思考と言ってもよく、まさに公空間に起こっている思考なのである。

  もっともこのような思考はもし存在するとしても、だれにも知られることはないのではないかという懸念がある。

  実際、無的思考が宇宙意識そのもののだとするなら、その思考にはただ全一的なもののほかには思考する主体は存在しないことになる。まさに私は無的思考をこのように規定したのである。果たしてこのような思考を私達は理解することが出来るのだろうか。

  禅では瞑想が重んじられ、そこから無に入ることを教える。私はこの無が無的思考に近いと考える。

  この無的思考を理解するのは、理念思考に慣れ親しんだ私達には難しいことかもしれない。しかしこの無的思考に覚醒した者は釈迦や老子やキリストのようにいくらでもいると私は考えるのである。  人間はただ、今あるままで止まっているのではない。人間が理念思考から解き放たれないと考える根拠もないのである。それよりも私は、人間はまさに自己意識から宇宙意識へと生まれ変わって行く過程にいるのだと信じる。

  その過程は、まずこの無的思考から始まる。これは宇宙そのもののとしてとらえられる。言わば気づかないままに進められている宇宙の思考なのである。そこから自己意識が生み出され人間としての思考が展開されるようになる。その思考も最初は無自覚の闇の中に身体的思考として現れ、やがて思考に対する自覚が生まれる。そこに一般的にとらえられる思考が存在するのである。この自覚が次第に無自覚の領域に浸透し、やがて無的思考までも自覚するに至ったとき、人は自分を含む宇宙全体に覚醒するのである。そこには既に私という主体は消え去り、人はただ全一の宇宙として覚醒するのである。

  この過程を見るに当たって私達は様々な思考の形態を見て来たのだったが、それはしかしいささか繁雑を極めたようでもある。次々と新しい言葉を取り入れたために、それぞれの言葉の関連が紛らわしくなってしまったかもしれない。

  これを整理する為に私は次にそれぞれの思考の関係を表した思考地図を表してみた。 

  これは縦軸に無から覚醒に至る精神的な変遷をとり、それに対応させる形でそれぞれの思考の占める位置を表してみたものである。  さらに図の横軸には、虚構性の強いものから、弱いもの。すなわち虚構から実在に向かう方向に対して、三つのブロックに思考を区分して配列した。

  この地図の全面を満たしているのは無的思考である。それは公空間と完全に重なっている。最も低次元の宇宙意識から覚醒に至る世界、その中間に存在する私空間の世界にさえ、無的思考は働いているのである。私達にそれが見えないのは、昼間に星が見えないように、私空間の鮮やかさに隠されているためである。

  身体的思考・情念思考・理念思考という三つの思考群は、無的思考の中に浮かぶように存在し、互いに関係しあって私空間を作り出しているのである。

  言うまでもなく、私達が通常、思考という言葉で指す領域は、図の中の理念思考から情念思考の一部分に至る小さな区画である。私は思考をエネルギーの波動としてとらえることで、その領域を宇宙の領域にまで広げたのである。(次表)

  私達は考えるという、人間にとって最も神秘的な現象を、幾つかに区分して見て来た。思考とは何かという問いに向かって、提示した幾つかのキーワードに照らしながら踏み込んで行くことによって、私達は前節で示した思考地図を手に入れたのである。

 しかしここであらためて確認しておかなければならないのは、この思考地図を決して絶対視してはならないと言うことである。

 そうでなければ私達は堂々巡りをすることになるだろう。これまでたどって来た道筋が、もし絶対的に正しいものとして言葉通りにとらえるならば、私達は確実に思考の迷路に迷い込むことになる。 なぜなら私達のこの作業自体が思考に外ならず、この論理そのものが言葉で組み上げられた、いわゆる理念思考の産物だからである。  これらは真実を指し示しはするが、真実そのものではない。それを言葉通りにとらえてしまえば、私達は自らのしっぽを食い続ける蛇のようになってしまうだろう。

 いずれにしても私達のこの考察は、言葉で語られている。ここにあるのは言葉しかないのである。

 ところが言葉は記号であり、一つのたとえに過ぎない。この意味でこの思考地図もまた全く同じ理由で真実そのものではない。

 つまり、私が述べて来た事柄は、実在という真実を暗示するための例え話に過ぎないのである。

 私達が注目すべき事柄は真実であって、例え話そのものではない。 真実は言葉にあるのではなく、体験そのものとしてある。人はその体験を表現しようとして言葉を使うが、多くの場合それを言葉通りに受け取って要点を逃してしまうのだ。すなわち私達は言葉の裏に託された真実に目を向けるべきであって、そこに使われた言葉自体に心を奪われてはならないのである。

 実際に思考は、私達が見て来たように切り刻まれて存在するようなものではない。これらは一つのものとして初めて生きてくるものなのである。

 思考の構造は、既に見て来たように、様々な方向から見ることができるけれども、その実態は単純なものだと私は考える。つまりそれはエネルギーの揺らぎという一点に集約されて行くのである。そしてそこに見えてくる世界は無限としか言いようのない宇宙というただ一つの存在しかない。人間的というよりもそれは宇宙的であり、精神的と言うより物質的な在り方を示しているのである。

 思考が精神的ではないと言うと、異論の飛び交うのが見えるようだが、しかしここではとりあえずそのように結論付けるしかないだろう。

 精神的と呼び得る状態は、実はもっと別の次元からやって来ると私は見ている。この点については次章を設けて論じるつもりである。 ともあれ、思考はこのように、実在そのものの波動として常に存在している。この思考が自覚され、頭脳の働きとあいまって、考えるという行為が生まれる。  

  私達は往々にして頭脳による思考だけをとらえてしまいがちであるが、思考の構造は決してそのような小さな領域だけでは説明のつかないものなのである。

  思考を五次元宇宙における実在として見るならば、それはまさに宇宙エネルギーの波動そのものと言えるだろう。

 エネルギーとは意識だという論理は既に私達の見て来たことであったが、このことから言うならば、思考は意識の揺らぎであると定義づけることが出来るのである。

 そしてこれらは確かに、実体ではなく状態である。この「状態」を実体と見るところに、思考の虚構性があったのである。

  思考はこのように、意識の変動というエネルギー状態を感じとして受け取る事から生み出される。そこに思考の原点があると言えるだろう。

 

 

第二章 覚醒 

 

 第1節 意志

 

  前章で私は思考が物質的な在り方をしていると述べた。思考の本質はエネルギーの揺らぎそのものにあって、そこには精神的な要素を見ることが出来なかった。すると人間はロボットと等しい存在なのだろうか。無論私はそうは思わない。しかし私は今しばらくこの物理に従う思考の形を見ておきたい。

 ところで人間の精神性を象徴づけるものに意志がある。人間はこの意志をもって独自の行動様式を決定し、自らこの行動に対して責任をもつ。

 この考え方には、意志は自分が自由に操れるものだという強い観念が存在する。しかしはたしてそうだろうか。私はこの思い込みにはなはだ疑問をもつのである。

 はたして本当に意志は私の自由になるのだろうか。

 確かに私達は自らの意志をもって思考をコントールすることが出来る。あれこれの問題を考えようと、思索を巡らせ、あるいは友人に手紙を書こうとペンを執る。このように意志は私の行動を決定している。そう考えるのは実に自然で又、自明の事のように思えるだろう。

 しかしこの自明と思える問題をさらに深く追及してみると、決してそれは確かなこととは言えないのが分かるのである。

 例えば、ここに一つのはっきり意図された思考があるとしよう。それはどんなことに関する思考であってもかまわないが、当然そこには、「@についての考察」と言ったように明確な意志が働いている。つまり意志とはその思考を起こし、リードする働きをしていると考えられるだろう。

 すると、私がある一つの考えを起こすとき、それを考えよと命ずる意志がまずそれに先立って存在していなければならないと言うことである。

 しかしそうだとすると、この意志は一体どこから生まれて来たと言えばいいのだろうか。

 私が意志を持ち、そしてその意志に従って思索するのだとするなら、私の持っているこの意志はどのようにして生まれて来たのか。仮にそれが前意志から生まれたと言うなら、とたんに私達はその前意志は前前意志から生まれたと言わなければならなくなるだろう。  結局の所意志は無限に先送りされて行くしかない。そうだとすると、意志などというものはもともと存在しようがないと言うことになるのである。

 ただ一つ意志の存在を認めるとするなら、私達が意志と考えているものはすべて、この宇宙が生まれた瞬間から既に存在していたというような考え方しかあるまい。何億年も前から、今日の私の行動が意志として既に決定されていたと言うのである。

 当然そこでは、意志は個を通り越えて存在し、宇宙の働きのすべてがこの意志によって動かされていると言う結論に行き着く。そこでは絶対神のような存在さえ想定する事が出来ない。なぜならこの意志を神に委ねたとしても、神の意志を生み出す意志がまたもや必要になるからである。

  この考え方からは、意志とは宇宙を動かす物理的法則そのものだと言うことになるだろう。この考え方は重要で、それに関して否定するつもりはない。しかしそう言ってしまえば、固定された運命論の類いが出て来そうで、私達がイメージする意志とは離れ過ぎてしまう気がするのである。

 単に表現の問題ではあるが、私は意志について、もう少し人間的な視野から眺めてみたいのである。すると結局このような方向で意志を理解することは出来ない事になる。

 では意志とは何かと言うことになるが、私の考えを結論から言えば、それは強く自覚された思考だと言うことになる。私たちはこの自覚された思考を意志だと考えているに過ぎないのである。

 すなわち意志は、思考がそうであったように、私自らが生み出すのではなく、私の中でただ自然の法則のまま生まれて来るものなのである。つまり既に見て来たように思考は私の中に生まれ出るエネルギーの流れであったが、その中から自覚し強く注意を引き付ける思考が私達に意志として見えてくると考えられるのである。

 論理的な思考でさえ例外ではない。

 例えば一つの問題を考え続けている学者がいるとしよう。彼は強い意志でもって難問に挑んでいるように見えるし、本人もまたそう認識するだろう。

 しかし注意深く見てみると、この彼の思考は彼が作り出しているのではない事が分かる。彼が作るのだったら、この思考を作り上げる前から彼にその設計図が用意されていなければならなくなる。思考を始める前から既にその問題の答えを知っていなければならなくなるのである。

 しかし現実には、思考はある意味で闇の中に手探りで入って行くようなものである。そこには初めから設計図があるのではなく、まさに無の中から真実を探り当てる作業に外ならない。

 したがってこの思考は彼が作り出しているのではない。彼の思考はただ暗中模索の状態で動いているだけなのである。思考は彼には関係なく彼の中で働いている。彼はただその生まれ出る思考を自覚し評価するに止まる。私達はそれを自分が考えていると理解しているだけなのである。 

 一つの問題を考え続けることが出来るのは、この思考に対する自覚が強いためであって、注意がその一点に向かっているからに外ならない。そのために思考は次々と連鎖反応的に一つの問題を考え続けるのである。それが私達には意志が存在するかのように見えるのである。

  ともあれ彼が物事を自発的に決定していくような意志などというものはもともと存在していなかったのだ。あるのは、彼の内部で自然に生み出されている思考に対する自覚なのである。

  ここで結論を繰り返しておきたい。

 すなわち意志とは自覚された思考であって、最初から彼の中に備えられているものではないのである。

 ただ人によって意志の持ち方が違うのは、生まれて来る思考の違いもあるが、その思考に対する自覚と、自覚された思考のとらえ方に対する態度の差異による。

 

 

第2節 感動・共感

 

 思考や意志が生み出されたものであると言う論理に有力な証拠として、私は感動と共感を取り上げる。

 人々は様々なものに対して感動し共感する。美しいものを見たり、芸術や人々の行いなどに対して、私達は感動して涙を流したり、全身の震えを覚えたりする。このような感動を経験しない人はまずいないと言って差し支えあるまい。

  ところで感動を内から眺めると、私達はあらかじめ感動を準備して、それを起こすのではないことが分かる。感動は突然やって来るのだ。私達は感動を自由にコントロールすることは出来ないのである。このことは体験上誰もが了解出来る事であろう。人は誰も自分の好きなときに感動したり、感動して心震えている最中にそれを取り消したりすることなど出来るものではない。感動は自分の内側でただ起こるままにしておく他ないのである。

 すべての感動は真実に触れたときに起こる。それは起こすのではなく起こるのである。

 感動が際立っているのは、私達の日常が論理的思考という虚構の世界に取り巻かれているからに外ならない。私達は私空間を現実の世界だと思い込んで生きている。その思い込みを突き破って真実が私にやって来る。感動はそこに起こるのだ。感動とは実在である私がその実在にそのまま触れることから起こる放電現象のようなものなのである。

 ところで感動は意志と直結する。感動は共感や感化を呼び、強固な意志を生み出す。あるいはそこから真なるものへの目覚めが起こる。当然そこから、この者の人生の方向性が生み出される。すなわちより強固な意志をもつ人格が形成されるのである。

 感動は常に意志を強化する。そのシステムは、意志が思考の自覚だという考えから簡単に記述できるだろう。感動は思考の最も鮮明でドラマチックな自覚に外ならないからである。

 すでに述べたが、感動は私達の体験によって明らかなように、決して私が自分の自由によって作り出すものではない。感動はやって来るのだ。

 同時に感動は私の心を揺り動かし、意志と直結する。すなわち明晰な意志もまたそこから生まれて来るとみていいのである。

 

 

    第3節 気づき

 

 すでに何度か取り上げて来たが、ここであらためて気づきという問題を取り上げておきたい。

 私はここに人間の最も本質的なものがあると確信する。純粋に精神的なものが、この気づきの中から現れるのである。

 ただこの気づきと言うのは、常に私の前に現れていながら、しかも最も理解し難い存在であるという事をまず言っておこう。

 気づきを理解するためには、どうしても思考についての正しい見方を身につけなければならない。すなわち思考は川のように流れる意識の波動であると言うことを体験として知る必要がある。

 そうでなければ、気づきと思考が癒着したままで、私達の理解は気づきという深遠なる真実に行き着くことはないだろう。

  気づきと思考が癒着するとはどういうことか、まずこのことから入って行くことにしたい。

 私達は様々な思考を見て来たが、実のところそこで展開した思考についての議論は、ほとんどの場合この癒着を見逃して来たのである。思考が物質的な存在論として記述出来たのは、思考に癒着している気づきの要素を取り上げなかったからに外ならない。

 ところで普通、私が考えると言うとき、そこに思考の働きだけを取り出してもそれを説明したことにならない。

 例えば夕食は何にするかを考えているとしよう。私は冷蔵庫の中を見てあれこれ思いを巡らしている。このとき当然私はこの思考の過程を知っていなければならない。そうでなければ私は夢遊病者でしかないのである。

  明らかに私はこの過程を自覚している。その思考の働きは、食材を認識し、そこから生まれる連想によって料理のメニューを組み立てて行く、いわゆる理念思考を行っていると言えるだろう。

  ところで私がこのように考えていると自覚するのは、まさにこの思考に対しての気づきがあって初めて可能になる。つまり私達は気づきがあって初めてその思考を知るのである。

 この意味で、無自覚のままで働いている身体的思考と言うのは、実は気づきがないまま進行している思考だったのである。

 私達は習慣的に、気づきと思考を一つのものとしてとらえてしまうが、それは大変な誤りであると私は主張したい。そしてこの誤解を私は気づきと思考の癒着と呼ぶのである。

 もしこの癒着を認めてしまうならば、私達にとっての思考は理念思考と一部の情念思考の領域に限られてしまうだろう。つまり気づきのない思考は思考とはとらえられず、単なる感覚として処理されてしまうだろう。そればかりではい、この癒着は人間存在の真実をも覆い隠してしまうのだ。

 気づきは決して思考の一部ではない。それは完全に思考とは分かたれた存在なのである。

 冷蔵庫を開けると食材が並んでいる。私はそれがニンジンだとか鳥肉だとか識別をする。この識別は概ね視覚によるが、視覚や頭脳の働きだけではすべてはただ闇のままである。そこに気づきがあって初めて冷蔵庫を覗いている自分を知ることになる。

 気づきは思考だけに止まらず、自分が今、気づいている所の一切のものが対象になる。自分、自分を取り巻くものごと、世界のすべては自然のまま存在しているが、それらは気づきによって初めて光が当てられるのである。気づかなければ私は寸分もその存在を知ることはない。それらは闇に閉ざされたままなのである。

 ここで知ると言っているのは、物事の道理を知るというのではない。またそこに知ろうとする意志が必要だというのでもない。ただ私に気づくということの外に意味はないのである。私と言うとき、そこにはすでに私に対する気づきが存在しているのである。

 それにしてもこの気づきを説明するのは難しい。思考との癒着があまりにも強すぎると言うのもあるが、何よりそれをストレートに表現出来ないのである。なぜなら気づきはそれぞれの中に存在する固有の体験であり、言葉を越えた存在であるからである。

 ここでは単純に、ある思考が生まれても、それに気づかなければ私はその思考を知り得ないという理解に止めておこう。

 ところで、我思う故に我ありという言い方は真理ではない。そこには明らかに思考と気づきの癒着があると私は主張する。 我ありとは気づきの状態を言う。我に気づき、その思いに気づくことがなければ我ありとは言えないだろう。ならば我思うだけでは我ありとは決して言えないのである。

 我思う、そのことに気づいているものの存在があって初めて私達はここに我ありと言い得るのである。私達はこの気づきの存在にこそ目を向けなければならないのだ。理解するのは難しいが、しかし実のところ気づきとは、私達の最も身近な問題なのである。なぜなら私達は、この日常を気づきと共に生きているからである。私達はただそれが、あまりに身近過ぎて気がつかないだけなのだ。

 普通私達は熟睡することで自覚を失う。しかしやがて目覚め始めると同時に、私達は自分と世界を認識し始める。まさに自分が生きていることに気づくのである。

 では気づきは認識そのものだと言えるだろうか。

  認識とは自分との関連で物事を理解するということだったが、このことから考えるなら、あるものを認識するためにはまず自分がなければならないことになる。すなわち我ありと言う気づきが認識のまさに前提条件になるのである。気づきがなければ認識そのものが成立し得ないことになるだろう。

 そればかりではない、私達は認識の成立する過程を既に詳しく見ているが、その過程の全てにわたって気づきが存在する。そこに気づきがなければ、私達は認識する対象を失うのだ。

 しかしまた当然のことではあるが、この認識の過程そのものは、思考の運動であって、気づきそのものではない。気づきはただこの思考を見つめるだけの存在だと言うことが出来るだろう。

 要するに認識は、思考の働きと、それに対する気づきによって成り立っているのである。

 繰り返せば、認識は、そのものに対する判断の過程であり、一方その過程を通して常に気づきは存在してそれを見守っているのである。あるいはまた、今何を考え、何をしているのか。何を感じ、何を見ているのかというような、目覚めて世界の中にいるこの私の思考や行動や感覚のすべては、それに気づくことで自覚される。私の全てとも言える私空間はまさに気づきによって私のものとなっているのである。

 実際、気づきは思考に対してだけあるのではない。目覚めて光を感じた時、すでにそこに気づきがある。そして一日の生活があって再び眠りに落ちるまで、その活動の一切は気づきによって明るみに出る。

 このように見て来たとき、私達には気づきに対する一つの考えがまとまって来はしないだろうか。

 まず考えるということが思考と気づきに分離されたということから、私とは何なのかという問題がもう一度やってくる。

 我思う、すなわち私が考えると言うとき、そこに気づきがある。考えている私に気づき見つめている「私」がなくてはその思考は成り立たない。成り立たないのではなく知り得ない。

  私が痛みを感じているとき、その痛みに気づいている「私」がなくてはそれはやみの中に閉ざされたままであろう。

 あるいは、きれいな光景に心奪われているとき、それに気づいている「私」なくしては、ただの物理的現象に過ぎなくなる。

 私は生きていると言えるすべてのことに対して、それに気づいている「私」なくして私は無に等しいだろう。

  結局私とは何かと言う問いは、最終的にはこの気づいているものに行き着いてしまう。私の背後にはこの気づきの存在があるのである。

 ところで前章の結論として、私は思考が実に物質的であると述べた。思考という働きのどこを見ても、そこには物理による説明で事が足りる問題しか見えて来なかった。しかも思考は私が生み出しているのではなく、ただ宇宙の揺らぎに即して生まれているのだということも同時に見て来たのである。

  結局の所、思考は私の体内と宇宙の相関関係によって自然に生まれ出てくるエネルギーの波動である。これが私の結論だったのである。

 すると当然のことながら、この物理の法則によって生み出された思考には自らその思考に気づくという要素はどこにも含まれていない。物質に気づきの能力を認める訳には行かないのである。どこまで行ってもそこには気づきが生まれてくる事はない。

 私はそこに無理やり精神性をくっつけてしまうような神秘主義者ではない。あくまで科学的に人間存在を探って行くならば、人間の思考もまた、科学的に記述できる宇宙の法則のままに流れているのである。

 しかしまた一方で、単に科学的な分析だけで人間を見ようとするならば、私たちは決して真実に行き着くこともないのだと言うことを見ておかなければならない。

 何事にも捕らわれず科学的にものごとを考えれば、このこともまた事実であることが分かってくだろう。

 すなわち、いかに科学的な分析であっても、それが思考であることには変わりがない。したがって思考とは何かという問いはその思考の中でただ堂々巡りを繰り返すしかないことになる。私達は思考の内側から、その思考そのものを客観的に見る手立てをもたないのだ。しかも思考の内部には気づきという精神性が生み出されるような要素はどこにもないのである。

 科学による分析では、結局どこまで行っても精神性を記述することが出来ない。科学はロボットを作ることが出来るが、それを知らしめる気づきを説明することは出来ないのだ。

 それでも今ここに厳然として私がいる。我思うまさにその私が存在しているのである。たとえ科学では記述できないとしても私がここにいるのは確かである。しかも私は何の努力もせずに、ただ座っているだけで自分がここにいることを知る。私はただ存在するだけで自分に気づいているのである。

 ここまで来ると、科学を絶対視するために、科学で記述できない事柄を無意味なものと断定し、神秘的で非論理的なものと言うような見方は批判されねばならないだろう。

 真に科学的であるならば、科学で記述し得ない存在もまた認めることこそがふさわしいと私は考えるのである。科学的に説明されるものだけが真実であると言う考え方は偏執的であって、決して科学的とは言えないだろう。

 まさにこの時点で人間存在の原点は、科学を越えるのである。この科学で記述し得ないものが、気づきの存在である。

 科学は宇宙の運動や、生命の仕組み、人間の起源や思考のからくりを説き明かすだろう。物の理を完全に説き明かすことさえ可能かもしれない。しかしたとえ科学が、この汲み尽くせない宇宙の全体を説明したとしても、それはどこまで行っても闇に包まれたままであろう。精巧なロボットが自分の存在を知らないように、高度な科学の成果も、それだけではその成果そのものの存在を知ることが出来ない。まさに闇に閉ざされたままなのである。

 そこに光を当てるのは、科学を越えた存在でしかない。それこそが気づきに外ならない。

 明らかに、私に気づいている「私」が存在する。この「私」は気づきとしか言いようのない実在である。この実在がなければ私はたとえ存在したとしても無に等しい。まさに熟睡している時をイメージすれば分かるように、そこには闇しかないのである。

 繰り返すが、気づきは思考ではない。例えて言うなら気づきは光である。闇の中から実在を照らし出す。しかもそれは照らし出すだけであって、判断することはない。判断は思考の領域であって、気づきはこの判断をも照らし出す。まさに純粋な気づきそのものなのである。

 さらにまた、気づきは認識でもない。それは認識の上にあって、その認識の存在を知らしめる。それは私を越えた何かである。

 気づきは何も語らない。何も求めない。気づきの中には真善美というような人間的な観念さえない。ただそこにあって、私を気づかせるのである。

 私とは何かと言う問いに対して、私は物質であるという答えに満足するとしたなら、私は完全に宇宙のなかに溶け込んでしまうだろう。なぜなら私達の体は物質的に内外の境界線を持たないからである。私が物質であるという事実からは、私は個として存在し得ない。あるのはただ一つの宇宙なのである。

 一方、私は精神的存在であるという答えを認めるならば、私は純粋な気づきという存在に集約される。私は気づきの中に消えて行くしかないことになる。気づきは個を越えた存在であり、当然その中では私というものは成立しないのである。

 結局私はどのように見ても存在し得ないと言うことになってしまうだろう

  これは私達の論理が誤っているからなのだろうか。

 私はそうは思わない。むしろ私達の論理の筋道は正しかったのである。この私が存在しないという結論は、古くから宗教が真理として示して来た教えと完全に符合する。

 禅の空観や、神とは愛であると解いたキリストや、色即是空を唱える仏陀、密教の教え等々、表現は違っても、そこに語られている内容は私達の達した結論と変わらないと私は考えるのである。

  ただ宗教は、私達のように試行錯誤しながら進まない。宗教のやり方は直接この真理の中に飛び込んで行こうとする。それは禅の一喝だけで十分なのである。それは最も近道ではあるが、しかし逆に凡人が大挙してそこに至る道ではない。悟りは知識を捨て得る賢者のみがわずかに到達出来る道なのである。

 私達が遠回りをしながら進むしかないのは、長年にわたって身につけた知識を捨て得ないからに他ならないのだ。そしてこの知識はさらに問い続ける。

 しかしそれでも私は存在するではないかと。存在しないものがどうして生まれるのか、と。 

  私が生まれるのは、癒着による。物質と精神の癒着、思考と気づきの癒着によって、私は生み出されるのだ。

 私はスクリーンに映し出された映像と同じ存在である。映像の実体はスクリーンと光りであるように、この私は、思考と気づきによって映し出されているに過ぎない存在なのである。

 その証拠として、私は迷いを取り上げる。スクリーンにどんな映像でも写し出せるように、私はどんな存在にもなり得る。ただ思うだけで、私は今すぐにでも今までと正反対のこが出来るし、思いつく限りの悪行も善行も行える。自らを殺すことだって可能であろう。 この迷いは私という実体が存在しないことを意味している。人はまさにこの実体の無い私空間の中で根無し草のごとくに漂っている。苦悩は実体がないからこそ生み出されるのである。

 しかし一度虚像から目をそらせ、真実に目を向けると、そこに実在がやってきて私は苦悩と共に消え去る。この実在、すなわち純粋な気づきは、決して揺るがない静かなそして透明な空気のように広がっている。それは生まれもせず、死にもしない永遠の存在であり、闇を照らす燈明なのである。

 その燈明に照らし出されるものは、限りない物質の浮遊する世界であり、そこではエネルギー保存の法則が支配している。すなわち増えもしないし減りもしない永遠に不滅の世界が現前する。

 気づきは光であり、物質は闇である。私はまさにこの光と闇の中から生み出された一時の幻想だといえるのである。幻想だからこそ生まれそして死ぬのである。

 私達は誕生を喜び、死を忌み嫌う。しかしふと気がつくと、生死の映像を見ている実在がある。死の不安に打ちのめされていたのはスクリーンに投影された私であって、映画から醒めた者のように実在はそこにあり続ける。後で述べる覚醒とはこのことへの目覚めを言うのである。

 気づきについてもう少し立ち入って考えてみよう。

 目の前に薔薇が一輪咲いている。このとき私は気づきの中で薔薇を認識する。私が目を閉じるととたんに闇がやって来て薔薇は見えなくなる。しかしこの闇もまた気づきの中にある。私は薔薇と同じようにこの闇を認識するのであるが、たとえ認識は変わっても、そんなものにはかかわりなく気づきは全く動く事なく存在しているのが分かるだろうか。

 目を開けても閉じても、決して変わらないものがある。それは私の変化を見つめ続ける気づきに外ならない。私がどう変化して行っても、立とうが座ろうが、様々な思考を巡らそうが、常に変わらないで私を見続けるものを私は体験することが出来る。それは私がどんな状態であっても同じである。私の上に起こる様々な変化に目を奪われなければ、気づきは常にそこにある。

 それはたとえ眠っている時でさえ、気づきは存在しているのだ。ただ私達は無を理解し得ないために、無に対する気づきの存在を理解出来ないだけなのである。

 気づきの存在は私の変化には一切関係がない。むしろその変化そのものを見つめている。この考えを延長して行けば、私が死ぬときも見つめ続けているのが分かるだろう。

 この気づきという存在は私が生まれようが死のうがただ見つめ続ける。

 私と言う存在は物理的に見ても、精神的に見ても存在しない映像のようなものだと先に書いたが、このことを考え合わせるならば、私の実在はこの気づきそのものだったことが分かるのである。

 気づきとは私の本質であり、今まで一度も生まれず死にもしないで存在し続けている、揺るがないただ一つの真実だと言えるのである。  私はこの気づきの存在を観照者と呼びたい。

 すると私とは何かという問いに対して、私は観照者であると言う答えを返すことが出来る。

 しかし実のところその答えは正しくない。なぜなら問いに対して答えること自体が、すでに言葉の領域に足を踏み込んでいることになる。観照者と言ったとたん、気づきはその箱に閉じ込められる。否、閉じ込めたと思った箱の中にはただの虚空があるだけで、気づきは相変わらずその外にあって、この観照者と言う箱を眺め続けているであろう。

 私たちはこの気づきの存在に対して、どのような名前ででも呼び得る。神と呼ぼうが、空と呼ぼうが、あるいは真理や仏と呼ぼうが、そこに何の妨げもない。つまり言葉とはその限りのものなのであって、思考の次元に止まるものなのだ。

 しかし気づきはもはやこの言葉の次元ではない。この次元を越えて気づきは思考そのものを見つめ続ける。まさに観照者なのである。 私達は今まさに、この議論が堂々巡りしていることに気づかなければならない。蛇が自分のしっぽを飲み込んで行って、もはやこれ以上進まない地点にやって来ている。蛇はもはや一つの小さな円でしかないのだ。その円の中で私達の議論はぐるぐる回っているのである。

 私が気づきの存在、あるいは観照者と言うとき、それはもはや言葉ではない。この円を飛び越えて、新たな次元に入って行くその証しでしかないのである。それを言葉として受け取るなら、再び私達は新たな言葉を設定して超越しなければならないという無限循環に陥るしかないのだ。

  私達ははたしてこの実在の中に入って行くことが出来るのだろうか。その問は私を捨てることが出来るだろうかと言う問いに連動するが、むろんここで論じる問題ではない。

 先に進もう。

 

 

 

    第4節 精神

 

  この問題に入る前に、私はもう少し気づきに関連して述べておきたいことがある。

 それは意識という言葉のとらえかたについてである。私は第3部、第2章の冒頭で、国語辞典から意識の説明を引用して、そこに認識の要素が混入しているとして、本来の意味を退け、意識を単純にエネルギー存在として規定したが、その誤りをここで指摘しておきたい。

 誤りはそこで使用した認識という言葉にあった。そこで私が使った認識という言葉は、明らかに気づきと認識の癒着したものとして取り扱っていたのである。つまり意識を説明して辞典に記された意味合いには初めから認識の要素などは入っておらず、それは意識に対する気づきの存在を表していただけなのである。私はそれを誤って解釈して自分で訂正するという独り相撲をとったに過ぎない。

 私はここで改めて古来より伝わった言葉の卓見性を強調しておきたい。と言うのも、本来使われている意識は、意識と認識が混在しているのではなく、実は意識に気づきが宿った状態を指していたのである。気づきはまさにこのように、意識の上に宿っているのだ。あるいは(意識=気づき)と表現してもいいかもしれない。

 覚醒して気づきの中に入って行くとそこには意識がある。自己意識から宇宙意識へと溶け込んで行く、気づきとしての全一の世界はまさに意識と気づきの解け合った世界なのである。

  意識はエネルギーである。そこに気づきが存在する。意識を「気づいていること」としてとらえる人間の知恵はまさにすぐれた把握だったのである。

 さて本題に入ろう。

 私達が先に示した思考地図には、無から覚醒に至る縦軸が描かれている。これは人間存在を精神的な側面から見た在り方を段階的に示したものである。そこに示した自覚とはどのように説明できるのか、あるいは自覚と覚醒の違いはどこにあるのか、こうした一連の問題はまだ手付かずにいる。そしてそこには精神と言う問題が待ち構えている。

 これまで私は精神の問題に立ち入るのを避けて来たが、今やそこに目を向ける時が来たのである。

 ここでは気づきの存在と物質の世界の関係から生まれる精神世界に視点を当てて、人間がいかに精神的に昇華して行くのかを見てみたい。

 

 

 1.無=宇宙意識

 

 最初宇宙だけがあった。均一な初期宇宙の世界は空間で満たされていた。やがてエネルギーの運動が起こり物質が作られ始めた。物質と物質は互いに引き合い、あるいは反発し合って、世界を造り始める。そこに働いている物質間のエネルギーの波動を私は宇宙意識と呼んだのである。

 そこに観照者は最初から存在していた。観照者とはこの宇宙意識に対する気づきの要素として考えられるのである。観照者はただ宇宙を見詰め続ける存在なのである。

 しかしこう表現したからと言って、そこに人間的なイメージを持ち込もうとしているのではない。純粋な気づきの要素がそこにあるという意味である。

 この気づきは、生まれることも死ぬこともない実在であると既に書いたが、これは私達の論理では、その初めも終わりも、どちらも記述できないと言う理由による。

 私達が認識できる領域の中では、気づきは確かに存在する。しかしながら私達はその始まりと終わりを説明することができないのである。それは逆から言えば、この気づきという存在がたとえどこかで始まり、どこかで終わるとしても、私達にはいささかのかかわりも持たない実在だと言えるだろう。

 すなわち、気づきの要素としての観照者はこれまで一度も生まれたことがなく、したがって死ぬこともない実在そのものだと言うほかはない事になる。

  したがって観照者=気づきは初期宇宙と共にすでに存在していたのである。

 しかし世界はこの気づきを取り上げる能力をまだ生み出していない為に、観照者は深く眠り込んでいる。そこにあるのは宇宙意識だけであって、そのうごめきも、ただ闇の中に止まっているのだ。

 そこにはまだ精神的なものは何も現れていない。この世界は無としか表現しようがないのである。しかし何も無いのではない。世界は満ち足りて、正もなく負もない充実した世界と言えるのである。そこにはただ一つの静かな公空間だけが広がっているばかりなのである。

 

 

     2.自覚=精神

 

 やがて宇宙に個が生まれる。宇宙意識の一部を取り込んで、泡のような存在が現れるのだ。物と物の相互の関係から均一な空間に不均衡が生まれ宇宙に激しい運動が起こる。そんな背景の中から1なる存在すなわち個が誕生するのである。

 エネルギーの分布に内と外と言う異なった質が現れる。個は外界(空間)に取り囲まれて、独自の運動を始める。そこに個としての世界(身体)を作り始めるのである。生命体が生まれたのだ。

  気づきはその上にあって、生命活動の基本的な感覚である「快・不快」を露にする。私達はこの「快・不快」を生み出すものを自己意識として理解して来たが、気づきはまさにこの意識の存在を照らし出すのである。

  ここに来て私達の議論は第三部の冒頭に戻って来ていることに気づいただろうか。

  わたしはそこで、「意識は身体の内側を照らし出す」という考え方に矛盾があることを述べて次のように書いた。

 「照らす」というイメージは、照らすものと照らし出されるものという二つの要素から成っている。私達はまさにその上に立って身体と意識の関係を論じたのであったが、しかしよく考えてみればこの「照らす」というイメージの中にはさらにもう一つの要素がなければならないことに気づく。すなわち照らし出されたものを「見ている者」の存在である。・・・・・人間存在の根本に意識を設定しながら、(さらに意識とは別の存在があるという)矛盾を生み出すことになるのだ。と。

  私はこのように表明して意識についての考察に入って行ったのであった。それはともかく、私がその時これを矛盾と考えたのは、気づきの問題をまだよく理解していなかったからに外ならないのだ。私は、思考と気づきの癒着をまだよく指摘し得なかったために、「見ている者」の存在をはっきりと認める事が出来なかった。

 しかし今やこの「見ている者」とは、観照者、すなわち気づきであったと了解するのである。

  ところでこの自己意識が生まれることによって、人間は独自の意識空間を作り始める。それは私の言う私空間と重なるのである。

  私空間は自覚された世界として設定した世界であったが、無自覚を私空間の予備的な世界と考えれば、私空間を無自覚の世界にまで広げることが出来る。すると私空間とは自己意識の作り出す世界として考えることが出来ると言うことである。

 それはともかく、この自覚と無自覚の境界が精神性の生まれる場所ではないかと私は考えるのである。

 思考は自動的に働いている。これは私の見いだした考えではあるが、しかしそれではどこまで行っても、精神的なものは生まれて来ないことになる。

 自動的と言うのはAからBへ物事が進むときに、このAとBには相互になんの関係も持たないと言うことを意味する。自動的な流れにはAはBを認める必要がなく、BもまたAを認識する必要がないのである。常にAはAであり、BはBであると言う孤立関係しかそこには成り立たないのである。

 AからBに至る間に演繹が存在すると言っても、また同じことが言える。すなわちそれが自動的である以上そこに現れてくる演繹子は単に規則的な動きをしているだけで、そこに恣意的な判断がある訳ではない。コンピューターを思い浮かべれば十分だろう。

 このように自動的なものは、まさにその瞬間瞬間が独立して流れて行くのであって、そこからはこの流れの全体を見渡すような構造はどこにも見えて来ない。まさに闇に閉ざされていると言うしかないであろう。

  では精神はどのようにして生まれるのか、言うまでもなくそこに気づきの存在が必要となってくるのである。

 結論を言えば、精神とは気づきと理念思考の複合体だということである。

 精神は生まれて死ぬ。むろん教えと学習によって精神は人間社会の中で受け継がれて行き不滅のように見える場合もあるが、それはただそう見えているに過ぎない。これは精神性に内在する、自らが絶対的であると思い込む傾向から来ているのだ。精神性が時代や文化によって異なって来るのは、精神の普遍性にたいする反証であろう。いずれにしても、静かにこの精神的なものを眺めれば、それは私と共に生まれ私と共に滅びて行くのが分かってくる。

 それはおそらく精神性の本体が、理念思考だということから来ているのだ。精神は思考と共に生まれ、そして消え去る。

 ただ滅びないものは、観照者=気づきだけなのである。

 気づきによって、私に起こっている様々な思考に光が当てられる。そのことによって初めて、人はその思考を、次の思考の中に取り込むことが可能になってくる。このことをもう少し分かりやすく説明すると、次のように言えるだろう。

 例えば思考は川のように流れている。その思考がA→B→C→D→Eという順序で生まれているとしよう。このとき気づきと、その気づきを取り込む作用がなかったなら、この思考の流れは互いに関係をもたずになんの変化も起こさない。ただ自動的に動いて行くだけだろう。

 私の考えでは、気づきは常にある。取り込もうとすればこの思考の流れは常に光りの中にあるとも言えるのである。問題はこの気づきを取り込む能力がいつ誕生するかと言うことになるだろう。 この取り込む能力とは、認識すなわち理念思考に外ならない。理念思考とは頭脳による思考だと既に述べたが、結局は頭の働きに行き着く。この認識が生まれてくる過程はすでに(第二部)で取り上げている。

 思考AがやってくるとこのAは気づきによって光が当てられる。するとBの思考はAの影響を受けて、B’に変化する。次には当然Cの思考がB’あるいはAの影響を受けてC’やC”に分化し始めるのだ。以下このようにして理念思考は自らを取り込みながら自己増殖して行くのである。その領域はまさに核分裂のように爆発的な広がりをもつようになる。まさに虚構の殿堂と言える。

 このように、人間は気づきと思考が合体したときから思考の世界を広げ、私空間を作り上げて行くのである。

  さて精神とはこの思考の流れに見出される一つの傾向を指して使う言葉だと私は考える。

  哲学者は真理と言うキーワードをとらえて思考の連鎖反応を企てる。物理学者は摂理を、芸術家は美を、神学者は神をそれどれの主題として思考を組み立てる。こういう形で思考にそれどれの傾向が生まれて来るのである。そこに精神性が存在する。

  自覚とはつまり、気づきと思考の合体した状態を言う。そして自覚は意志をあらわにさせ、精神を生み出す。最も人間的な領域はまさにこの自覚に基づいているのである。

 

 

  3.無自覚=身体的

 

自覚を理解すると、無自覚はそんなに字数を要しない。その概要は前章でも述べている通りである。

 いずれにしても気づきは厳然として存在する。無自覚はこの気づきに対しての認識がまだ無い状態を指すのである。しかしそこでは既に意識を世界から分離させて自己意識を完成させている。自覚への準備が調っているのである。

 

 

  4.覚醒=超越

 

 覚醒は自覚を経て初めてそこに行き着く地点である。それは決して無と同じものではない。あえて言えば、無が眠りなのに対して覚醒は眠りからの目覚めなのである。そしてその間にある自覚はまさに夢と言うことになるだろう。それはまさに私達が深い眠りから徐々に目覚めて行く過程とよく似ている。人は目覚めの前によく夢を見るのである。

 覚醒するためには、夢から覚める必要がある。しかしそれはどういうことを意味するのだろうか。

 悪夢にうなされて目が覚めると、そこに現実の自分を発見してほっとする事がある。するとこの私にとって、夢は何の価値もないものとなる。そこにあった危険は元から存在しなかったのを知る。私はあっさり夢の世界を捨て去り、現実の自分を生き始めるのである。 夢に対して現実は重みがあり、私達は苦もなく夢を捨て現実を取る。否、現実から夢を眺めれば、それはただ空しいものとしか写らないのだ。

 覚醒も同じことが言える。理念思考の作り出す夢から覚めたとき、そこにあるのは実在そのものである。

 私は観照者=気づきこそ実在であると述べたが、人はまさしく覚醒して自分は観照者であったことに気づくのである。

 この観照者はもはや言葉では表現し得ない。

 ただひとつそれが可能だとすればそれは否定形で表現するときのみであろう。なぜなら、・・・ではないと言うときのみ、この表現は正しいと言えるからである。

 仏教で否定が重んじられるのはこのためであろう。すなわち観照者は全能の神ですらないのだ。

  したがって私達は、観照者をもはやこれ以上を追及することはできない。観照者とは何かと言う問いは立てることが出来ないのである。逆にそれは何かと問う私がいる限り、この者はいまだに自覚の世界に立っているという証しとなるのである。

 論証によって私達がやって来られるのはここまでである。そしてここから先は深い崖となっている。覚醒の領域はその崖の向こうにある。二つの世界は完全に分かたれているのだ。

 私達にはそこに至るための、いかなる橋も架けることは出来ないのであって、覚醒に至るためには、結局そこから飛び越えるしかない。超越することこそ、覚醒に至るただ一つの道なのである。

 超越は気づきと思考を引き離す事から始められる。その癒着の構造を理解して、注意深く私のこの認識から気づきだけを取り出し、その気づきに身を移すことである。

 超越とはこの気づきそのものに入って行くことを意味する。私という虚構すなわち思考の世界から跳躍して、気づき=観照者となること、それが覚醒に外ならないのである。

  観照者として私を眺めるとき、今まで疑いもしなかった私と言う存在はまるで霧のように消えてしまう。私などと言うものはどこにも存在しなかったのである。

 そこにあるのは私ではなく、ただ有りのままの人間がそこに生きているのだ。私というのは、その素のままの人間存在に被せた拘束着のようなものであり、自然に備わった能力を歪め制限する働きしかしない事が分かってくる。しかもそれは気づきと思考の作り出した夢だったのである。

 この世の中で最も価値のあるものは、有りのままの姿である。私達が真実を希求するのは、心の底にその思いが潜んでいるからに外ならない。そこには最も自分を大切にする思想がある。思想と言うより、それこそが自然の生業なのである

 ところで私達は覚醒と自覚の境界にある思考として、宗教的な思考と芸術的な思考を取り上げた。

 宗教は神という概念を利用して、あるいはそうでなくとも論理的に彼岸を理解してそこに飛び移ろうとする。そこには気づきと思考の癒着を極めて厳しい態度で断ち切ろうとする。言わば精神の自殺を試みるものだと考えられる。

 一方芸術は、人間の自然に備わった能力を通して彼岸に至ろうとする。

 先に述べたように、覚醒したものが目にするのは、すべてが有りのままに生きる世界である。

 超能力などという考え方は思考のごく幼稚な部類に入るが、この超能力なる力が存在すると、人々に信じさせるような条件は確かにある。言うまでもなくそれは本来の力を封じ込めてしまった私の存在に外ならない。私から本来の能力が解放されたとき、夢を見続ける人々にとっては、それが超能力に見えるに過ぎないのである。

  芸術家はそれを感性に置き換える。すなわち感性を通じて自分の可能性を最大限に探って行く。そこに真の意味の芸術があると私は考えるのである。

 芸術という、非論理思考によって、自分の可能性を探求するということは、私を認めながら、その私の中に真実を求めようとする態度である。それはある意味でブレーキをかけながら実在に迫って行くようなものであるが、宗教のように精神の自殺を強いられるような厳しい道ではない。

 道程は長いが、しかし幸運にも、その道によって自身の極限にたどり着いた者は、そこに本来の自分の姿を見、実在に気づくことが出来るのである。そこで人は真実の世界に入る。

 芸術が独自性や特殊性を重んじ、既成のものに追随することを戒めるのはそこに本当の理由があると私は思う。 

 覚醒に至るためには、論理的な理解はあまり役に立たない。論理で迫ればその先は必ず行き止まりになった崖が現れる。その先は宗教的跳躍が必要になる。

 しかし感性は実在の体験に外ならない。その体験は論理で解釈さえしなければそれはまさに実在そのものなのである。それは覚醒の中にも存在する。ある意味で感性は私によって歪められない限り、それは有りのままの人間存在を映しているのである。

 先に覚醒に至る道には橋がないと書いたのは、言うまでもなく論理による道筋であって、感性の世界はまさに陸続きなのである。そこに橋などは必要がないのである。

 覚醒に至るこの二つの道は互いに相反する長所と短所を持っている。それならばこの二つを携えることによって補い合いながらいくらかでも容易に覚醒するかもしれない。しかし私はここで方法論には立ち入るつもりはない。

 覚醒した意識はもはや完全に論理思考を落としている。そこに広がるのは没論理思考である。もはやここでは気づきが思考と癒着するようなことは無い。それは癒着ではなく、ただ一つになるのである。没論理思考は同じ思考と言う言葉を使っているが、それは完全に次元の違った思考を指している。それは言わば観照者そのものの思考である。観照者の夢ではなく、観照者の現実的な思考だともいえる。いずれにしても気づきは、没論理思考そのものとなるのである。そこにはもはや苦悩を生み出すような、相反する二つのものは存在しない。そしてまた一なるものさえ消えて、ただ実在の中に入るのである。 

 

 

 

第三章 観照者

 

  第1節 五次元の思考と観照者

 

 最後に私は観照者について、触れたい。無論観照者について直接論理による説明は出来ないのであるがのしてんてん系宇宙論と銘打って進めて来た議論の締めくくりとして、あえてこの問題について見ておきたいのである。

  観照者とは何かと言う問いは立てられないと、私は先に述べたが、それは私達が使う論理においてであって、論理の形が違えばそれはまた別問題となってくる。

 つまり、今ここで「私達が使う論理」と言うとき、そこで意味しているのは私という主体の固定された論理と言うことである。

 ところが私達がのしてんてん系宇宙と名付けた世界は、認識主体がスケールの系を無限に変動することで描き出される宇宙であった。  すなわちそこにある論理は、主体が固定されず、逆に主体の変化によって得られるものである。

  簡単に言うと、主体を固定して、世界を記述する論理に対して、主体を変動することによって世界を記述する論理が私達の作り出したのしてんてん系宇宙だったのである。この論理で観照者を眺めたとき、気づきの問題が立体的に理解出来るように思うのである。

 私達はここで、第一部で取り上げたのしてんてん系宇宙の概論に再び入って行くことになる。無論ここで、この宇宙の構造を繰り返すゆとりはないが、このスケールの軸を持った5次元の世界を念頭におきながら議論を進めて行くことにしよう。

 のしてんてん系宇宙のスケールの軸を眺めたとき、私達の世界であるヒトの場を中心に、極大に向かうスケールの場には神人が存在し、極小に向かうスケールの場には素人(もとひと)が存在した。そしてスケールの各場においては、それぞれの住人が自らを認識主体として世界=認識の場を作り上げているのであった。

 つまりスケールの移動をやめて一つの場に固定して世界を眺めるならば、それは今まさに私達がたどって来た論理が成り立つことになる。それはどのスケールの場においても同じことが言えるであろう。認識主体を固定すると、とたんに同じ論理が、素人の場でもヒトの場でもあるいは神人の場でも、同時に成り立って互いに行き交うことはない。なぜなら主体を固定すると、自分に対して大きすぎるものも小さすぎるものも、どちらも同じように認識することが出来ないからである。認識主体すなわち私を持ち続ける以上、そこに生まれる論理は観照者を越えることが出来ないのである。

 ところがこの主体がスケールの系に沿って自由に変化し得るならば、事情は変わってくる。そこにのしてんてん系宇宙の大きさがあるのだ。

  さてこの各スケールの場に繰り広げられる論理を横糸に例えると、のしてんてん系宇宙のスケール軸にそった思考は縦糸であって、まさに、ここに横糸と縦糸の織り成す思考世界を実現することができるのである。

  覚醒によって私達はまさにこの私そのものを落とす。私とは言うまでもなく認識主体そのものであることに注意を向けると、私達はもはや簡単に縦糸の思考を手に入れることが出来るはずである。

 なぜならこの思考は客体を一点に据えて、その中を主体が自由にスケールを移動しながら進められる。この思考を実現させるためには固定された主体を廃して自由を与える事なのである。このことは主体から解放された者にとって、いとも簡単なことであろう。

 さてこの観照者は横糸の思考ではもはや論理の外にある存在としか言えなかったが、縦糸思考においては少し事情が変わってくる。  前置きが長くなり過ぎたが、ここで縦糸思考による記述を試みてみたい。もっとも、のしてんてん系宇宙の構造を見ればそれはあまり説明を要するものではない。観照者はこの重層的に広がる宇宙を満たす意識そのものであるといえばそれで済むからである。宇宙における意識の在り方は既に第一部で述べた通りなのである。

 観照者が生死を越えた存在であると言う論理は、この観照者そのものが固定された主体の視野から逃れて行く為であったが、主体を変化させることで私達はどこまでこの観照者を追って行けるだろうか。私の興味はそこにある。

 私達人間の辿った精神性の道筋は、無としての眠りから、自覚という夢を経て覚醒する。すなわち観照者という実在に気づく事であった。私は観照者そのものになることによって自らが宇宙意識であることに気づく。するとこの意識を神人の次元で見るならばまさにそれは神人の内側、すなわち自己意識に外ならないのである。

 私が覚醒して観照者となり得たとき、私はこのとき神人の自己意識と一つになっている事になるのである。無論ここで便宜上私と言う言葉を使っているのは、観照者を意味する。

 私達は覚醒を達成させて初めて、私達には認識不可能な神人の次元に至るのだ。私はこのとき神人として生き始める。ヒトの場における身体はやがて滅び解体するが、私を自覚させ、この世に私を出現させた気づきはやがて神人の対内を照らし始める。

 私達の人生を50年とすると、神人はその1022倍の時間をかけて熟成する。無論、主体のない私には既に時間の観念さえ失われている訳であるから、私はただ神人の体内を照らす気づきとして存在し続けるのである。 

  神人もまた覚醒に至る苦悩を経て、この私、すなわち観照者に気づくようになるだろう。そのことによって私=観照者は神人の自己意識からも解放され、神人を育む宇宙意識のなかに溶け込んで行くのである。

 神人の覚醒によって意識はさらに次元を越える。そしてそこは言うまでもなく第二の神人の体内としてあり、観照者は第二の神人の自己意識となるのである。

 観照者はこうして、限りなく意識を高めて行くのである。この構図はのしてんてん系宇宙の構造から既に説明が尽くされている。

 観照者の存在を下位の方向に目を転じると、そこには素人が存在する。私の自己意識は素人を通り抜けて来た観照者に外ならないだろう。こうして観照者は無限に小さな世界に入り込んで行くのである。

 結局のところ観照者はスケールの系を無限に広がって行く存在である。そしてその両端は無限のかなたに埋没している。そしてここが縦糸の思考による限界点だということなのである。

 論理に無限が現れるのは、認識主体が存在するからに相違ないが、たとえ主体を変化させたとしても、それは主体であることには変わりがないのである。すなわち縦糸思考によっても、観照者は捕らえることが出来ないことを意味しているのだ。  

  論理自体が主体なしには成り立たない虚構である以上、私達はいかなる論理形式をもってしても観照者を記述することは出来ないのである。

 実際、観照者は論理ではなく体験である。私達は一切の思考を離れ観照者としての体験の中に入って行くならば、その体験を通して、思考では決して行き得ない無限のかなたに立つ事になるのだ。

  観照者には時間も大きさもそして場所さえもない。当然、形を持つこともなく、それはただこの瞬間を全一として存在している。

  観照者として存在するとき、のしてんてん系宇宙などというものはただの小さな夢に過ぎない。

 そして私達はその観照者になり得る。否、私達は初めからこの観照者以外の何者でもない。私達は生まれる前からこの観照者だったのである。

 ただ必要なことはそのことに気づくだけなのである。

 

 

  第2節 観照者と社会

 

      1.観照者と他者論 

 

 私達は覚醒とはどういうものかと言う理解を得た。無論だからと言って私達が覚醒の中にいるかどうかは別問題である。

 言葉でどのように理解しようと、観照者としての自分を得たことにはならないのは何度も繰り返し述べて来た通りなのである。

 観照者は言葉ではなく、気づきとしての体験そのものなのである。自分を観照者にまで昇華させるには知識は何の役にも立たない。むしろそれは障害になる。しかしながら私達は一方で言葉による伝達手段より優れたものを持たないのである以上、この障害を覚悟で言葉を使う他ないのである。

 ある娘が料理学校から家に帰って、習いたての料理を作ろうと台所に立ったが、材料が足りないから出来ないと言って来た。材料は買いそろえたばかりなのでおかしいと思い、よく聞くと、ないのは計量カップだと言うのがわかった。

 これはジョークだが、計量カップは料理の単なる道具に過ぎないのに、彼女はカップを必須のものと思い込み料理の本質を見抜けなかったのである。

 言葉はそれ以上に私達の目をくらます。言葉は学習によって得られるが、この言葉は、これは何かと言う問いかけに対する答えとして与えられるために、私達は子供の時代から、言葉が得られればすべてを理解したと思い込む傾向を植え付けられているのだ。「何」を満たす言葉がなければ不安になるが、逆に言葉が与えられればそれだけで安心してしまう。本当は分かっていなくても、分かった気になってしまうものだ。

 ところが、今や私の立っている所は実証主義的な議論の破綻した次元なのである。言葉に重みを持たせることはもはや出来ないのだ。私達は、言葉の向こうにある真実に目を向け続けるしかないのである。

  前置きはこれくらいにして、観照者が果たす社会的な意味を見ておきたい。ここで私達は第2部の他者論にもう一度入って行く。

 他者論では、他者と他人と言う区別をつけた。すなわち私空間に生み出されるものが他者であり、他人とは公空間に実在する人間存在そのものを指したのである。

 私空間における他者や、社会は、私の反映に過ぎなかった。他方、公空間には明らかに他人が存在し社会を作っているが、私達はこの公空間での他人を直接知ることは出来なかったのである。つまり私達は実在としての他人を、実体とは縁遠い他者として私空間の中で把握する他なかったのである。

 したがって私達の心は各自の中で完全に孤立していた。私の周りにはたくさんの他人が存在しているが、私はその中の誰一人として本当に知ると言うことがないのである。

 ところが、この私が観照者としての覚醒に達したとき、自ずとその見え方は変わってくるのである。ではこの時私は、他人とどのようにかかわることが出来るだろうか。

 観照者にはもはや認識主体たる私は存在しない。するともはやその時点で私の中には私空間は存在しなくなる。つまり私が消えるのと同時に他者消えてしまうのである。もはや観照者たる私の前には、一切の虚構は存在しないのだ。

  やがて私は公空間の中にいるのを知る。そこではもはや私は、自分と他人との区別すらつける事は出来ない。むしろそんな必要はなくなってしまっているのである。そこにはただ一つの世界が現前している。

 そしてその中にあって、私は自分を取り巻く自然と他人と、そしてもろもろの存在との完全な調和の中にいることを知るだろう。たとえ他人からムチ打たれようとも、そこに調和があるのを知るのである。キリストが右の頬を打たれたら左の頬を出しなさいと言うのはこのことを教えていると私は理解する。

  観照者にとって、この世に存在する一切のものは調和しているのだ。それらはあるべくして存在している。善も悪も、美も醜も、あるがままのものとして存在しているのである。

  迷いの中にいる人々は芽生える前の種子のようなものである。人間にとっての悪夢でさえ大地に植えられた種子に過ぎない。悪いものは何もない。すべては大自然の中で調和している。種子はいつか目を出すのである。

 中には目を出さずに腐って行くものもあるだろう。しかし腐った種子は大地に帰ってまた新たな種子を生み出す。こうして世界は延々と続いて行くのである。

 人間といえども、この自然の中の種子以上であることはない。つまり人はそのままで既に自然と調和しているのだ。そして例外なくすべてのものは一つの生命の中で生きているのである。

 観照者はまさにこのように世界を見る。親鸞が善人も悪人もともに救われると言うのもこのことから来ているのである。

  ヒットラーでさえ調和した自然の一部である。たとえればそれは破壊者としてあるいは病原菌として働く。一方、観照者は種子に水をやる。生命を育み、喜びを生み出そうと働く。しかしどちらにしてももこの世界に必要だから存在しているのだ。

 言葉だけをとらえてはならない。その裏に隠れている真実を見なければ理解は遠のいてしまうだろう。私は今、気づきとして働く実在を表現しようとしているのだ。

  観照者は世界に不必要なものは何ひとつないことを知る。どんなに人間が常軌を逸しようが、釈迦の手のひらの孫悟空のようにそれは常に自然の中にある。観照者はそのように世界を見る。その心は静かであり、それを乱すものは何もない。

 ただ覚醒しない人間だけが夢を見てその夢に躍らされているのである。危うい社会を作り出し、それが今にも壊れはしないかと気をもむ。闘争を繰り返す。しかし崩れるものなど何もないのだ。

 種子が目を出すためには殻は割れなければならない。人間はその亀裂だけを見て不安を感じているだけなのだ。視野を一杯に広げ、覚醒するならばそこは充実した楽園が広がっているのに、人間は小さな目先のことしか目にしないで悪夢を見続ける。夢の中で自分の陰に脅え、意味もない暴力と愚行を繰り返す。

  あるいは愛を求め、失うのを恐れる。しかし愛はいつでもそこに満ちている。それは求める必要もない。私達は愛の中にいる。それに気づきさえすれば愛は捨てることさえできない自然の摂理であるのを知る。それほど愛は世界に充満している。キリストは神は愛なりと言うのはそのことを意味していると私は思うのだ。観照者は愛そのものなのである。 

  また人間の求める幸福は思考上の満足に過ぎない。金を得、地位や名誉を得ること、幸福な家庭、幸福な身分、こうしたものはすべて思考の満足に過ぎない。思考の求める満足は一瞬のうちに消えてしまう。第3部で見て来た一連の苦悩はこのことを証明していると言えるだろう。消え去る可能性をもっているものはすべて夢の部分なのである。

 だが、真実はいつまでも消えることがない。思考を越えて覚醒したものはその真実の中に入るのである。そこには至福がある。それは決して消えることのない実在の持つ存在感そのものなのである。 老子は無為自然という言葉を使う。この言葉は人間の在り方を意識しながら真実を表現した実に適切な言葉だと私は思う。

 無為とは何もしないのではない。無為とは実際の行為ではなく、思考を停止するということを意味している。私は思考を行為ととらえたが、まさにこの行為を止めることなのである。

 すると人間は自然に立ち返る。無為とは何もしないのではなく、むしろそこから人間の自然のままの行為が始まる。人間の行為は自然に生まれるのである。その行為には至福が満ちているだろう。なぜならそこでは、一切の抑圧から解放された、伸びやかで有りのままの人間としてあるばかりだからである。

 宇宙に存在するすべてのものは、その一切が至福に向かっている。私の体が健全であるとき、この体の全ての細胞は何の考えもなく自然に起きる行為の中で生きている。全ての細胞が無為自然の中で生きるとき、私の身体は健全に働くだろう。全ては勝手に存在しているのではなく相互に関連を持っているのである。

 人間社会もまたそのように見るべきである。人々に覚醒が起これば社会は自然に治まって行く。そこに方法など必要がないのである。まさに老子はそのことを説いている。

 観照者には私が存在しない。これは何度も述べて来たことだが、私が存在しないということは同時に他者もないと言うことである。公空間には観照者としての私と他人が存在するが、それはただ存在するだけで、公私の区別など既にないのである。

 私は、人間は個的な存在であって、決して他人との心の共有は出来ないと述べて来たが、観照者においては心の大いなる共有が始まるのである。個であると言う考えそのものが既に迷いであったというべきであろう。

 しかしまた、人間はただ迷っているのではない。それはまさに目覚めに向かう自然な流れの中にあるのだと私は考えるのである。人はやがて目覚める。苦悩は目覚めの前の浅い夢なのである。

 本論の始めに思考の歴史を見たが、ここに至って再び意味をもってくる。すなわち人類が覚醒したとき、私達はそこに大いなる一つの神を生み出すのである。私達の流れて行く先はまさにそこにつながっていると考えられるのである。

 

 

 

   2.変革

 

  現在社会は繁栄を極めているように見える。物の理は実証主義の下で目覚ましい進歩を遂げ、都市は土さえ見えないほど構造物によって覆われ、簡便な生活空間を実現している。

  この生活空間では、土はまるで汚いもののように考えられ、母親は土の上を裸足で歩く子供をとがめる程である。郊外の田畑はどんどん宅地化され住宅とアスフアルトで覆われ、その面積は年毎に広がっている。私達の誇る文明社会は、今や自分の足元さえ忘れてしまうような錯乱した社会を築こうとしているのだ。

 埃のない人工物を好み、ひたすら簡便さと富みを求める。しかし実証主義の下では心は育たない。貧しいままの心が感じる富は物欲を出ることがないのである。

 そのために自然は回復不能なまでに痛め付けられる。人間の力がまだ小さかったころには、人間の愚行も自然の自浄範囲にあったが、今や自然は地球規模でその臨界点に達している。人間はこれから先をどう生きて行くのだろうか。

 自然はこれから先も、おそらくもの言わず静かに存在し続けるだろう。人間によって地球は破壊されようとも、自然は何事もなかったようにあり続けるだろう。そして人間だけが自分で自らの首を真綿で絞めながら死んで行く。その可能性は厳然としてあるのである。  それにしても、人間が自然を痛め付けるなどと考えることが既に間違っている。人間が自然を痛め付けることなど出来るものではないのである。山を削り、川を汚し、空気を汚染する。地球の庇護幕であるオゾン層の破壊にしても、それは自然の破壊などでは決してない。破壊されているのは人間自身なのである。

 私は反語を使っているのではない。ただ真実のみをそのまま語っているのだ。

 それに気づいた一部の人々から自然保護の運動や原子力設備などの設置に対する反対運動は起こっている。しかし私に言わせればこれらの運動も覚醒の下に行わなければ徒に社会を緊張させるだけで、大した力にはならないだろう。猛突進する機関車の釜を炊きながらブレーキをかけるようなものでしかない。

  では釜を炊いているのは誰なのか。それは紛れもなく私達自身なのだ。私達の誤った欲望がひたすら機関車の釜を炊いている。

 そう言うと善良な社会運動家は気を悪くするかもしれない。そして言うだろう。釜を炊いているのは紛れもなく資本家であると。彼らは自らの欲望のために自然を破壊して顧みないのだと。

 確かに現在社会をそのままにとらえる限りは、その通りだと言えなくもないだろう。しかし真実は違う。機関車の先頭に立っているのは確かに資本家ではある。が、しかしその資本家を作り出しているのは私達の欲望なのだ。資本家は私達の欲望を吸い上げて大きくなる。あたかも怪物のような巨大な力を蓄え、地球の資源を食い物にしている。この巨大な欲望が作り出す妄想は、あたかも阿片のように自らの生命を踏みにじりながら、ただ空しい、作られた喜びを追い求め続けるのである。この虚構の空間に迷っている限り、私達は一様に自然に対して同罪と言わねばなるまい。

  いかに強欲な人間であっても、私達の欲望が彼を助けなければ、どうして一人でオゾン層が破壊出来よう。一人の人間の力は高が知れている。それはまさにこの自然と共生出来るように作られているのである。

 この半狂乱の社会を鎮め、人類が自然と共に生きる社会へと改革出来るものは強権を持つ政府ではない。優れた一個の指導者でもない。もはやそのような一部のけん引力によってこの社会の流れは止められないだろう。清潔で便利で豊かな環境は、私達にとってあまりにも魅惑的で麻薬的なのである。

 しかし観照者は一瞬にしてこの愚行に気づく。狂乱は自ら気づくことによって初めて治まるのである。

 私達が自ら観照者であることに気づいたとき、不必要な欲望は苦悩と共に消え去る。何もしなくても、何かにならなくても、人間はそのままで幸福であることを知るのである。一切の抑圧から解放された、自然のままの自分を取り戻したとき、人は何ものにも代え難い至福の中に居る事を理解する。そうなると資本家はもはや私達から欲望を吸い取ることが出来なくなるだろう。どんなに心をそそる商品を作り出した所で、私達はそんなものに目もくれないであろう。どんな物よりも、心満たすものが私達自身のうちにある以上、着飾った商品にどんな魅力も感じはしないのだ。私達はすでに本質を見抜く覚醒した目を持っているのである。

 商品が売れなければ、最も強欲な資本家が、損をしてまで地球を汚すだろうか。彼は自らの強欲に掛けて、事業を縮小するだろう。彼は悪意で自然を破壊しているのではない。それをさせているのはまさに彼の欲望そのものなのである。

 人間の欲望は知識を増やせば増やすだけ大きくなる。技術が高まれば高まるだけその被害は甚大になる。人々はますます夢見の深みにはまって行くのである。時々自然のうめき声が眠り込んだ人々の耳に達すると、不安が巻き上がる。どこかに悪があるに違いない。人々は悪を暴き始める。しかし悪とは何なのか。

 目覚めてみれば、そこに悪などというものはどこにもなかったことに気づく。悪徳資本家も政治家も、そして彼らに栄養を与え続けて来た私達も、ただ欲望による、泡沫の夢を見ていたに過ぎなかったのである。

 人類は今や自らの狂乱に気づき、実在としての私、すなわち観照者へと覚醒しなければならない。今やその時に来ているのではないだろうか。

 実のところ、私がここで書いたことは既に老子の語るところである。ここにその箇所を引用してみよう。

 

             道経上編、第三七章

道の常は無為にして、而(しか)も為さざるは無し。

侯王、若し能くこれを守れば、万物、将に自ずから化せんとす。  化して欲おこれば、吾れ将にこれを鎮むるに無名の樸を以ってせ んとす。無名の樸は、夫れ亦た将に無欲ならんとす。

欲せずして以って静ならば、天下は将に自ずから定まらんとす。

 

 ところで人類が覚醒した時、社会の変革は自然に起こるが、その後に出現する社会はどのようなものなのだろう。本論の最後に、そのことに触れておきたい。

  私は先に実証主義の破綻を述べた。そして論理思考の虚構性を何度となく論じて来た。しかしそれは人間にとって悪だと言ったことはなかった。論理思考は結局のところこの地球さえ破壊してしまうほどに人間を暴走させはする。しかしそれもまた自然なのである。 地球を破壊するまでに、世界を混乱させるのは、人間というものの本姓を知らぬままに、夢見の中で論理を操るからに外ならないのだ。

 そして私達は論理思考を超越して、初めて覚醒するのだったが、そうだからと言って観照者に論理思考がもはや生まれて来ないと言うのではない。頭脳はむしろ社会的な義務や責任から自由になり、苦悩や抑圧から解放される事によって、本来の能力を発揮するようになるだろう。論理思考は当然そこに現れるのである。まさに頭脳は頭脳本来の在り方で存在する。観照者は思考から、気づきを完全に分離しているために、思考の持つ虚構を真実と見まがう事がない。そのために、生まれてくる思考の効用だけを取り出すことができるのだ。

 本来の思考は自然の流れと密接につながっている。覚醒することによって、思考をこの本来の姿のまま見つめるならば、その流れは私などと言う、ちっぽけなものなのではない、この宇宙そのものの思考であることが分かってくる。思考はまさに自然の意志の現れだったのである。

 だからこそ、観照者に起こる思考は、それ自体が善以外のなにものでもない。

 私達は普通、自分に起こる思考を、そのまま行為に直結させることが出来ない。それが善か悪かを判断する、いわゆる人格のフィルターを通さなければその思考が信じられないのである。そしてこの思考管理の行き届いた人をもって人格者と呼び、思考のままに生きる人の上に置く。そしてこれが健全な社会と考えるのである。

 しかし観照者はそれとは全く逆の社会を実現する。思考のままに生きるものこそ善であり、思考に対する疑いを捨て切れない者は、自然の流れを阻んでいる者と見なされる。

 私達は前章で思考地図を作ったが、そのような分解された思考はここには無い。思考地図の境界線をすべて取り去った思考が流れ始めるのだ。体の隅々まで覚醒が起こり、私達は花を見ると同時にその香りを嗅ぎ、鳥の声を聞く。季節を体感し内部に生命の歌声を聴く。花を育む大地の振動を受け、飛ぶ鳥の棲む大気を呼吸し、それに続く宇宙の波動を受け取る。波動は体内に染み渡り、そのもっとも深い部分から新たな生命の共鳴が起こる。波動が全身に行き渡り、すべての感覚が目を開く。そして一瞬にそれが起こっている。この体験こそが至福であり、本来の思考の姿である。思考を制限しなければ、この全身に起こる波動の流れに乗って、頭脳が働く。まさに宇宙的な生命の求めるままに理念思考が生み出されて行くのだ。そこに自然のままの、人間の行為と姿が現前し、導かれる。

  もはや人は、自分の内に生まれる思考や行為に迷い悩まされることは無い。人はただ自然の中で、全てのものと共鳴し合う歓喜のままに生きて行くのである。そこに思考の存在する意味があったのである。

                      

 

  = 了

 のしてんてん系宇宙論を終えるにあたって

 

 私が二十代のいつだったか、螺旋の夢を見て、それを書き留めておいたものがのしてんてん系宇宙の原型になった。この発想もまた自然のままにやって来た思考に外ならない。

 私はただやって来る思考を捕らえるだけで、論理を捻り出そうとは決してしなかった。幸運だったのは、私の頭脳が理論を捻り出す程には優れていなかったと言う事だろう。

 私はこれを謙遜や皮肉などと言う無用の感情を交えて書いているのではない。

 ほぼ二十年にわたって、私は自分の思考に制約を付けず、ただ思いつくままにそのやって来る思考を書き留めて来たのであったが。それが一つのまとまりとなったのは、おそらく、やって来る思考に手を加えなかったからだと確信する。

 思考はただ私を通り抜けて来たに過ぎない。私は思考の交通整理はしたかもしれない。しかし私の知識が浅かった為に、それ以上はどうすることも出来なかったのである。

 したがってこの一連の文書には矛盾もたくさん含まれているだろう。私がもし、いっぱしの思想家だったなら、その矛盾の前でたたずんでしまって、先に進めなかったかも知れない。

 無謀にも私はそんな事にはおかまいなしに、議論を重ねて来たのであったが、ここに至って、私はこの思考の本流が何に向かっていたのかが分かるようになった。

 人間は皆、覚醒に向かおうとする存在なのだ。私達に隠されている真実はすべてが覚醒に向かおうとする流れを持っているのだ。人はただ、謙虚に自らの内に向かいその声を聴こうとするなら、必ずそこに覚醒に向かう道を見つける。本書はその一例に過ぎないのである。 

  この書を何と呼べばいいのかは分からない。それは自分を何と呼んでいいのか分からないと言うのと同質なのかもしれない。

  ただ言えることは、これは私の思考の変遷を示したものだということである。試行錯誤を繰り返して、ようやくたどり着いた気づき=観照者の次元は確かに至福の次元である。私は今この自覚と覚醒の間を波打つ渚の上にいる。観照者の世界を垣間見たとき、発想から長い年月をかけて書き連ねて来たこの本書が、覚醒の下では、ほとんど無価値である事に気づいた。

 この気づきが、私のかいま見た観照者の世界の真実性を証明しているように思えるのである。

 本書は、少なくとも私にとって、覚醒に至る梯子のようなものだったのである。覚醒に至ればそれはただ無用の長物に過ぎない。

 この意味で私は自分のこの思考過程をそのまま示すことにしたのである。稚拙な論理展開や矛盾は手直しする方が良いのかもしれないが、しかしそれでは、論理を大切にして実を捨てることに成りかねないだろう。身をてらうよりも、辿った思考の道筋を有り体に示すことのほうがどんなに素晴らしいだろう。みすぼらしい姿をしていても、そこに実が熟成するならそれはそれなりに本物なのである。 むしろ私は、この試行錯誤と稚拙さの中に、読者が自らの思考を刷り込める可能性を求めたいのである。

  人間は本当は苦しむ必要などどこにもないのだ。そしてその理由も存在しない。薔薇が薔薇であるように、鳥は鳥であるように、人間は人間であるように作られている。人はただ一人の人間であればいいのだ。明日何かになるのではない。明日何かにならなければならないのでもない。人はただ、今この一瞬がすべてなのだ。使命も義務も責任も、背負わなければならない重荷はすべて虚構である。あるがままの生こそが真実であり、この生に立ち返る事が覚醒である。

  私は芸術家を標榜する人種であるが、このように文字を操作する作業も同じ時期から始めていた。言わば感性思考と論理思考が交互に働いて私を熟成へと導いたのかもしれない。私にとってそれは双方の足のように必要な思考方法だったのである。

 論理思考は虚構だと主張したが、しかしそれを悪いことだと判断するのは大変な誤りである。虚構は落とすべきだが、悪ではない。むしろ悪というその判断こそが悪だと知るべきなのである。

 およそ人間の内から生まれてくるものに不必要なものは何もない。例えば苦悩は、身体の痛みと全く同じ働きをしている。苦悩はまさに不健全な心を気づかせようとする自然の営みなのである。そして健全な生命には苦悩は決して生まれることはないのだ。

 虚構はやがて覚醒を誘う。健全さはまさにそこから生まれるのである。思考についての探求は、結局このような形で真実に行き着いた。私はそう確信するのである。

 思考は見つめることによって、落ち着きを取り戻す。気づきそのものの中に身を置けば、目まぐるしく変転していた思考の、洪水のような黒雲はなくなる。そこに真実が夜空の星のように輝き始めるのである。

 この星の光の元で、私はこれまでにないくつろぎを体験した。そしてこのくつろぎを中から眺めれば、それは確かに知識からやって来るのではないことが分かる。くつろぎとは実在の体感だったのである。

 この至福感を分かち合えたらと思う。人間は何のために生きているのかと問われれば、分かち合うためだと答えたい。至福は分かち合うことでさらに深い味わいと香りを放つようになるだろう。個に分断された人間は分かち合うことで一つになるのである。