セリナの物語
(2007年8月−10月にブログ「アートセラピー」に連載した短編)

            
私が始めてセリナと遇ったのは

国道を横切る地下道だった。
そこに地下水が零れ落ちている階段がある。
直線の地下道に真横から侵入する出入り口で、
普段誰も使わない通路だった。
その階段を降りて直線の地下道と接する角に、奇妙なあるものが置かれていた。
自転車で通過する私の目にそれが留まったのは、この日が初めてだった。
国道を横切る地下道から横に抜ける階段の出入り口、
ちょうどその踊り場のところに女物の靴が置かれていたのだ。
この地下道は不心得者がよくごみを捨てていくことがあり、
そのごみは何週間もそのままになっていることが多かった。
市の管理が行き届かないのだろう。
だから私はその日、それ以上気に留めることもなく、そのまま数日が過ぎた。
ごみはいずれきれいに取り除かれるだろうと思っていたのである。

小さな商社のうだつのあがらない社員で、そろそろ定年のことを考えなければならない、これと言って特徴もない男、それが私の定番の自己紹介だ。
毎朝自転車で駅まで走り、帰りは夜遅く倒れるようにペダルをこぐ。
時々酒を飲んでみても
倦むような生活に変わりはない。
そんな私に再び好奇の目が向いたのだ。

えっ?と思った。
地下道を横から出入りする踊り場の角に再び、女物の靴が目に入ったのは、最初に見かけてから数日後だった。
毎日、地下道を自転車で一気に走りぬけているのだが、その数日は目に留まらなかったらしい。
確かに、この前に見た靴が同じ場所にそのまま置かれているのである。
私は通り過ぎた自転車をUタウンさせてその場所に戻った。
誰かが地下道に向って立ち止まり、その場所で靴だけが残ったような形で並べて置かれている。
間際の壁には地下水が滴り落ちていて、その雫を浴びて靴はぐっしょりぬれていた。
ビニール系の安物の靴だった。
つま先に目立たない花柄がデザインされているのがなぜか印象に残った。
誰かのイタズラだろうと思いながらも、今にも歩き出しそうな靴の気配があって、ただ捨てられたものではない、何かの意志のようなものが感じられて奇妙な違和感が残った。
もうすぐ管理事務所が掃除をして片付けるだろう。
無理にそう思って私はそれ以上確かめもせず会社に向かった。
平凡で何の変化もない生活の中に
一足の靴が私の心に波紋を投げかけた。
5
年続いた結婚が破局を向かえ、会社でも意欲がわかず平社員の席を暖め続けている。何に対しても心が動かない。この倦んだ生活はすべて自分の責任と思っていた。
背中に氷を入れられる。
眠ったような心に、地下道の一足の靴はまさに氷だった。
雨の日はいつも私は自転車を置いて駅まで歩いた。
まとわりつくような雨に傘を差しながら、なぜかA子のことが頭に浮かんできた。
A子は会社の経理担当だった。私と同じバツ一で、同じ境遇を哀れんでなのか、私に好意を示してくれていた。
しかし私は結婚の失敗から立ち直れずに、その好意に答えるのが怖かったのだ。
いつも気付かないふりをして彼女の前を通りすぎた。
そのA子にさりげなく誘われてしまったのだ。
どう断るか。
そんなことを考えているうちに、私は地下道の前まで来ていた。
地下道は自転車で通り抜けるとわずか数十秒だが、歩いて通り抜けると意外に距離がある。10mほど坂道を下り、そこから2030m平坦な通路を進み、同じ仕様の坂道を上って地上に出るのだ。
雨傘をたたんで地下道に入ると、初老の男が先を歩いていた。
男は神経質に濡れた傘を振って雫を飛ばしている。
その飛んだ雫の跡を確かめるようなしぐさをしながら歩いていた男が、ちょうどある場所に目をやったのだ。
私ははっとして男を見つめた。
しかし男は何の反応も見せずにその場所を通り過ぎ、そのまま坂道を登って行った。
女物の靴が一足、そこに立ったまま忽然と姿を消したような、そんな形で置かれている。
確かに今もここにあるにもかかわらず、男は何の反応も示さなかった。
もしかしたら私にだけ見えているのだろうか。
突然そんな考えが浮かぶと、背中に悪寒が走った。
あの靴は私だけに見ているのだろうか・・・
頭の表層で起こったこの考えは、そのまま恐怖を伴って私の心に刻み付けられたらしい。
そんなバカなと思いながら、いつも私の意識に恐れが絡んでくるようになったのだ。
その日の帰り道、再び地下道の入り口に差し掛かったとき、入り口の奥の方から異様な妖気感じて私は急に恐れを感じた。
とっさに私は地下道から逃げるように横道にそれ、そのまま国道の交差点を渡ろうとしたのである。
私は地下道の一角を意識から振り切るように、信号が青に変わるや国道の交差点を足早に渡りはじめた。遅い時間の国道を走る車は少なかった。
横断歩道を半分渡り切ったときだった。

パァパァパァパァアー!!

突然クラクションが鳴って、私の左手から赤いスポーツカーが飛び出してきた。
私は身がすくんで立ち尽くした。
交差点をスピードも緩めず、赤信号を突っ切ろうとした車が私に襲い掛かった。
グワャー・・・、意味不明の言葉と悲鳴を同時に上げて身をよじった私の数センチ前を赤いかたまりが疾走した。

ギギギギッッ

急ブレーキの音がして、激しくスリップした車が止まった。
同時に運転席から若い男が出てきて怒鳴った。
「バカ野郎!死にたいんかおっさん!」
「信号無視のお前が言うことか!」
私は腹の中で叫び返し、男を無視して横断歩道を渡った。
「アホンダラ!」男はそう言捨てて立ち去った。
わずか数秒の出来事に私の肝はまだ冷え切っていた。
私は商社の仕事を平均的にこなす社員と思っていたが、この数年はもっとレベルの低い惰性で過ごしてきた気がする。
数年と書いてあらためて考えて見ると、それはもう
10年にもなるのだ。5年間の結婚生活の破綻がそれに倍するうつろな期間につながっていようとは、自身考えもしないことだった。
疾走する赤いスポーツカーは、そんな私をあざ笑うように去っていく。
しかしこの経験が私の心に軽いトラウマを残して、思いもよらないところに導いてくれるとは、そのときの私には予感さえなかったのである。
トラウマというのは他でもない交差点の信号を渡る恐怖感だった。
地下道を避けて信号に向おうとすると、赤いスポーツカーの姿が浮かんでくるのだ。
私は結局、自転車で突っ切る数秒間の怖さの方を選んでいた。その後も私は通勤の道程に地下道を利用し続けたのである。
今から思えばあの赤い車の事件は、私を地下道から逃がさないようにする神の計らいであったような気がする。
無気力に陥っていた私の心を救うために差し伸べられた神の手。
それとは知らず私は楠の葉を食む蝶の幼虫のように、その手を自然に受け入れていたのだろう。
神との出会いはある日突然やってくる。
ただ無垢なるものの上に。
実際私はそれ以後、国道を横切るために交差点の横断歩道を使うことがなかったのである。

そんなある日、走行車の音もまばらで人気のない夜道を私は歩いていた。
その日は朝になって自転車のパンクに気付き、あわてて駅まで走ったのだった。
いつもの場所に来ると地下道の入り口から妖気が獲物を誘うように漂って来るのを感じて逡巡したが、足だけは地下道に向って行った。
夜のしじまにぽっかりと開いた口の中に飲み込まれていくような気分が背筋を凍らせた。
中に入ると、例のものの前に渦巻く得体の知れないエネルギーに青ざめ、全身に冷い汗のあわ立つのが分かった。
霊を信じる者がいたら、霊鬼に抱きかかえられたと思うかも知れない。
例のものはまるで私を出迎えるようにもうひと月も前からそこにたたずみ、私に手招きをしているように見えた。
さらに私にしか見えていないという思いが恐怖に追い討ちをかけた。
私は恐怖の塊になったまま例のものの前を通り過ぎた。
すると空気がドロドロと動き、背後で想像を絶する何ものかがうごめいている。
私は振り返ることが出来なかった。逃げ出せばとって食われるだろう。
全神経が恐怖に引きつり細胞があわ立ち、窒息しそうな穴の中で悲鳴を上げる寸前に通り抜けた。
それは無感動で無感覚な私の生活の中に現れたビックバンのような波紋だった。
その波紋は私の倦み切った愛の形をかすかに揺り動かしたのだろうか。
空虚な愛、10年もの間それは私をとらえる牢獄のようなものだったのかも知れない。
A子は鉄格子の隙間からその牢獄に捕らえられた私に手を差し伸べているのかも知れなかった。
社内運動会でのことだった。
バーべキューの火力が強くてなかなか肉を取れないでいる子を見つけて、私は皿に肉や野菜を取り上げてその子に渡した。
「ありがとうございます」愛くるしい笑顔で礼を言うと、その子はA子のもとに駆けて行った。
3年生で弘樹という名だとA子は笑いながら紹介した。
弘樹は人見知りしない性格なのか、その日随分と私に打ち解けたのだった。

私は一度だけ、弘樹をジェットコースターに乗せて欲しいと請われて遊園地に行ったことがある。
私には子供がなかったために、その日随分新鮮な感覚を覚えたものだった。弘樹の手は柔らかく、抱くとクリームの香りがした。
私は一瞬A子を妻と錯覚し、あの破綻は夢だったのかもしれないと思ったりした。
この家庭のぬくもりをどれだけ望んだことだろう。
「この子のために一日お父さんありがとう」A子は笑いながらそう言った。
「いえ、私も始めて父親というものを体験させてもらいました」私はそう答え、弘樹の頭を撫ぜた。
私の言った言葉に偽りはなかった。確かに私はその日、家庭のぬくもりを覚えたように思えたのだ。
その後A子は、つくりすぎたのでと言っては、しばしば弁当を私に持ってくるようになった。
断る勇気もない私はいつもあいまいな言葉を発してそれを受け取った。実際なんと言っているのか私自身わかっていない、そんなあいまいな心のままにうめきが声になった感じである。
私はA子のそんな好意を疎ましいとは思わなかった。
それよりも私自身の心がA子に惹かれていくことに恐れを抱いていたのだ。
これ以上A子が近付いてくれば、私の愛は内部から崩壊する。
家に帰ると妻が出迎え、子供が駆け寄ってくる。
私はカバンを妻に預け、子供を抱え上げて肩車をする。
そんなシーンをよく夢想した。安物のドラマの刷り込みに過ぎなかったのかも知れないが、結局実現することはなかった。
結婚と破局までの5年間、妻との間に子供に恵まれることはなかったのだ。今となってはそれは幸いだったと言うべきかも知れない。

それにしても私の中ではいまだ妻という言葉が息づいている。
あれから10年という歳月が過ぎたが、妻への愛の形を持ち続けているのだ。
妻は今頃幸せな家庭を築いているだろう。二人の子供にも恵まれたと風の便りに聞いた。それは喜ばしいことだった。
妻の幸せを願う。それが私の愛の形なのだと信じ続けてきた。 

「今は幸せです。私のことはどうか忘れて、あなたも幸せになってください。
                                 芹理奈」
妻からの最後の手紙だった。
三行半にも満たない短いものであったが、それまでに話尽くした後の、妻の凝縮された心が私には見えていた。差出人の住所が書かれていない手紙だった。
まだ日本にいるのか、韓国の人となったのか、さすがにそこまで知ろうとする気持ちはなかった。
もし返信するなら、きっと私も同じことを書いただろう。
そんなことを考えながら激しい胸の痛みを抑えて、引き裂いた手紙をテープで復元し、封筒に返した。
あれは今もアルバムに挟んであるはずだ。
妻を始めて知ったのは大学のキャンパスだった。彼女は人形劇のサークルに参加していた。私が参加しているサークルとの交流の場に彼女がいたのだ。名前が芹里奈だと知ったのはそのときの自己紹介だった。
私は一目で心動かされたが、すでに彼女には恋人がいた。
二人は同じサークルの仲間で、いつも行動を共にしていた。そんな二人を見かけるたびに私はジェラシーを感じて目を伏せるしかなかった。
大学を卒業すると、私は今の会社に就職した。芹里奈のことは大学と共に遠く過去のものとなった。何事もなければおそらく思い出すこともなかっただろう。
大学を卒業してからも、私は小さな実験劇場や商業演劇を観る事が多かった。
商業演劇といってもマイナーなものに限られていたが、たまたまその年、前売りから大評判になったチケットが手に入ったので、珍しく大掛かりな芝居を観にいったのだった。
チケットの交換窓口に並んでいると、後ろからそっと肩をたたかれたのだ。
何気なく振り返ると、ドキッとする美人が立っていた。一瞬なんだか分からなかったが、「芹里奈です」といわれて私の心はあっという間に大学時代に飛んでいった。
私達は懐かしさと奇遇の驚きで興奮して、芝居が終わってからも喫茶店に居座って昔話に興じたのだ。そしてさりげなく訊いた問いの答を聞いて、私は芹里奈が今も独り身であることを知った。
私と芹里奈はそれから急速に近付いた。
趣味が似ていたので、映画や芝居に誘い合ってよく出かけるようになった。
大学時代に付き合っていた彼とのことはどうなったのか気にはなったが、
芹里奈はあまりそのことを話したがらなかった。
思い出したくないこともあるのだろう。私はそれで納得した。
今、目の前にいる芹里奈の笑顔だけで充分だった。私はその幸せをノートに綴り、
彼女をいかに愛しているかという事を飽きもせずに書き連ねた。
声を聞きたくなると夜中でも電話をかけた。愛くるしいくぐもった声が何度も電話線を往復する。それは素晴らしき日々であったと今も思う。
付き合いを始めて1年も経ったころ、私は結婚を申し込んだ。
「一緒になってくれないか」
事前にいくつかの気の利いた文句を考えていたが、向き合って口に出た言葉はそんなありきたりのものだった。
その瞬間、私の心を突き刺したものは言葉の問題ではなかった。
芹里奈の顔がその一瞬、苦悩の色に染まったのだ。
それを隠すかのように、俯いてしまった。唐ゆきさんを扱った舞台を観ての帰りだった。
「悪いこと言ったかな・・・」
私は喉をからして、干からびた声をだした。
「ううん、」
芹里奈は顔を上げた。その目がうっすらと濡れていた。
「うれしかったの」
「それじゃいいのか?」
私の心は浮き沈みの落差の大きさに忙しかった。そして芹里奈は言った。
「いつかこんな日が来ると思っていたの・・・、でもこんなに早く・・・」
「あなたが好きなんだ。ずっと一緒にいたい。きっと幸せにするから・・」
私は脈絡なく言い募った。
「私、しっかりした気持ちであなたの言葉を受け止めたいの」
「あなたのその気持ちで僕は充分なんだよ。それ以上何もいらない」
「お願い、もう少し私に時間をちょうだい・・・」
芹里奈は涙をためた目を向けた。
「どうして泣くの?」
「私・・・」
芹里奈はそれ以上の言葉を詰まらせた。
「分かった・・・今は何も言わなくていいよ」
芹里奈が私以上にこのことを真剣に考えていることに心打たれた。
彼女を苦しめるものが何か知りたかった。しかしそれ以上に頬をつたう涙が哀れでいとおしく思われた。
私は芹里奈の肩に手を伸ばし、そっと体を引き寄せた。彼女の頬が私の胸の中であたたかく柔らかかった。私はその日、芹里奈のために生きようと心に決めた。
彼女の幸せのためにならどんなことだって出来ると思った。
芹里奈への愛の形が鮮明に私の意識の中に生まれたのはこのときだっただろう。
今考えれば恥ずかしいような過ちであったかも知れないが、そのときの私の純粋な心には違いなかった。
芹里奈の心が癒されるまで私はいつまでも待ち続けるつもりだった。

そんな関係が3年は続いただろう。
彼女の心が氷解したのはその年のクリスマスイブの夜のことだった。
私達の3度目のクリスマスは彼女が職場で手に入れたというホテルのディナーショーを観ながらの食事だった。
途中私の好きな歌手の歌と語りで1時間ほど楽しんだ。要するに芹里奈からのクリスマスプレゼントだったのだ。
ゆったりとした食事のあと、私達は凛とした夜の街に出た。
にぎやかなネオンサインの洪水の中を無言で通り抜け、静かな街灯の下で私は小さな箱を手渡した。芹里奈の誕生石の質素な指輪だった。
「ありがとう、サンタさん」
芹里奈はおどけて礼を言い、それを指にはめて見せた。
「おれはサンタになりたいんじゃないよ」
芹里奈は怪訝そうに私を見た。
「サンタのソリになりたいんだ」
「ソリって、何よそれ」芹里奈は可笑しそうなしぐさで吹き出した。
「あなたの重荷を全部乗せて走りたいんだ」
芹里奈が瞬間固くなるのが分かった。とても長い沈黙のように思えた。芹里奈の涙だけが動いていた。
突然芹里奈は私に抱きつき唇を合わせてきた。私は全身にしびれを覚え、そのまま芹里奈を受け入れた。そして私はその何倍もの抱擁をこの愛おしきものの上に返した。私達はその年が明けた秋に結婚した。
どちらの親族からも祝福され、友人達も駆けつけてくれた賑やかな結婚式になった。
それに先立って、互いの家庭を訪問したとき、芹里奈の両親の喜びようは尋常ではないと思えるほどだった。
私達の結婚生活はとても穏やかに過ぎていった。
子供が出来ないということを除いて不足は何もなかったといっていいだろう。
あの頃は芹里奈もまた、私と同じ幸せを共有していただろうと今も信じている。
芹里奈がある男と再会するその日までは・・

予定外の残業が入ったために退社が遅くなった。何かお腹に入れようとも考えたが、家で用意しているだろうと思い直してまっすぐ家に帰った。
ただいまの声をかけてドアを開けたが返事がなく、怪訝に思った私の目にダイニングキッチンにうなだれて座っている妻が映ったのはその直後だった。
いつもは帰ったら、すぐに玄関まで姿を見せるか、キッチンで料理の手が離せないときには声だけで出迎えてくれるのだ。
何か気の抜けたような妻の姿は初めてだった。
「どうした?」
「あっ、お帰りなさい・・・ごめんなさい、私も仕事が遅くなって、まだ食事の準備できてないのよ」
妻はそういって、急いでキッチンに入った。
「どこか、外で食べるか」
「ううん、すぐ作るわ。その間お酒でも飲んでいてください」
そういいながら妻はほつれた鬢を耳に掻き揚げた。
違和感がそこからこぼれだしてくるようで、私は何か落ち着かない気分に支配されていた。
その日から妻は確かに変わってしまった。
家事の手を止めてため息をついて座っていたり、帰りが私より遅い日が重なったり、話を上の空で聞いていることが多くなった。
念入りに化粧をしてみたり、服装にもあれこれ迷っていることがあったりして、私と目が合うと逃げるように目をそらすこともあった。
夫婦の交わりの時でさえ、妻の体が空蝉のように思えるのだった。
夜中にふと目を覚ますと、傍らの妻が起き上がって座り込んでいた。
肩が震えて、息を殺して泣いているのだと分かった。
「どうしたんだ」
妻はびっくりしたように身を硬くして俯いたまま顔を上げなかった。
私はのろのろと起き上がって照明をつけようとした。
「お願いつけないで・・・」
「一体どうしたんだ、最近ちょっとおかしいぞ」
私はあくびをかみ殺して言った。
「何でもないんです」
「何もなくてどうして泣いているんだ」
「起こしてごめんなさい・・・もう寝ましょう」
そういって妻は横になった。
そんな妻に覆いかぶさるように私も横になって彼女を後ろから抱きしめた。
眠気はどこかに飛んでいってしまっていた。
妻は私に背を向けたままだった。
「ごめんなさい・・・」
「いつもそうなんだな」
「・・・・・」
妻の体が私の腕の中で小さく固まっていくように感じられた。私はその体から離れて身を起こした。
「結婚するときもそうだった。それが望みならと聞かなかったが、今も変わっていないよね・・・俺には何も話してもらえないのか・・・」
「・・・・・」
「重荷を背負わせてくれないか。どれだけお前の幸せを願っているか分かって欲しい・・・」
しばらく沈黙が流れた。
私は半分諦めたような悲しい気分で妻から目を離し、背を向けてベットの縁に座りなおした。
さらに空しくとげのある無言が続き、耐え難くなった私がキッチンに立とうとした時だった。私の背後で妻の起き上がる床ずれの音が聞こえた。 

Mといった。
妻が学生時代に付き合っていた男、キャンパスでは公認の二人だった。
在日韓国人の2世だと自己紹介の場で聞いたとき、しっかりと生きているやつだという印象を持ったが、それ以上親しく話をすることもなかった。
時々芹里奈と二人のところを見かけては、奇妙な嫉妬を覚えていたことを今も思い出す。
重苦しいしじまの中で、妻の細い声だけが私の心をかき乱していた。
秘密の部屋が私の前で開かれようとしていた。
私は今初めて、妻の口からMの名を聞いたのだ。
芹里奈とMは卒業してまもなく結婚を決意した。Mの就職が決まらなかったので、それまでは芹里奈の収入で何とかやっていこうと、安いぼろアパートまで物色していた。
ところが予期していなかった障害が起こった。
双方の両親が互いに反目するようにその結婚に反対したのだ。
二人は必死に説得を試みたが、無理解は激怒を呼び起こすばかりだった。
芹里奈は家を出る決心をした。二人で生活を続ければいつか分かってくれるだろう。
しかしMはそのことで深く自尊心を傷つけられていた。自分は何ものかという反問と社会の不条理に対する怒りが、芹里奈にまで及ぶのを止めようがなかった。
少なくとも芹里奈はそう感じた。
Mは芹里奈に別れを告げ、無鉄砲にも単身母国に渡った。
オモニの故郷だと、彼はそれだけを告げて彼女のもとから去ったのだ。
Mはそうすることで、自分の両親と日本に決別したかったのかも知れなかった。
芹里奈の悲嘆は大きく、しばらくは自分の部屋から出られなかった。
しかし、どんな悲しい出来事でも時間は事実を遠くへ押しやっていくものだ。
芹里奈の心もいくらか落ち着きを取り戻してきた。
そんな頃合に、友人が気晴らしにと芝居のチケットを送ってきたのだ。
迷った挙句、芹里奈は結局劇場に出かけた。
そこに思いがけない人の姿を見たのだった。
それが私だったのは言うまでもないことだ。
そこまで話して、妻の声は幾分落ち着きを取り戻したようだった。
部屋は豆球のほのかな明かりで、鈍くふくらんでいるように見える。なんだか得体の知れない胃袋の中のように思われた。
「Mを今も?」
「昔の話よ、もう関係のない人だわ」
妻の声は硬かった。
「コーヒーでも入れようか」
私は膿んだような薄闇が耐えがたく、キッチンにたって照明をつけた。
私はなぜか興奮していた。愛おしさと嫉妬の入り乱れた感情が膨れ上がり、やがてコーヒーの香に触発されるように、妻を幸せにしてやりたいという思いが浮かびあがってきた。
妻を呼ぶと、髪を梳かすようなしぐさをしてやってきた。俯いたままでテーブルに着いて褐色の液体を口に運んだ。
「それが最近、彼に出会ったの、偶然・・・・」
含んだコーヒーを飲み下して妻が言った。
「会った?」私の心に衝撃が走った。
「彼、何とか向こうで生活するめどが立ったらしいわ」
「それで何回か逢ったのか、最近様子がおかしかった」
「3回ほど、喫茶店で話をしたわ・・・」
「どういうつもりなんだ」
「どういうって?」
「逢ってどうするつもりなんだ」
「どうするって、ただ彼が誘うので喫茶店に行っただけよ、他に何があるっていうの」
「なら、こんな夜中にどうして泣いたりするんだ」
「今度彼に誘われたの、どうしたらいい?」
あの時私は実際どう考えていいのか分からなかった。
というよりも妻との関係の終わりをはっきり意識したといったらいいだろうか。
問い詰める私に妻が低い冷ややかな声でそう言ったのだ。
「俺は行かないで欲しい。その上でお前が一番いいと思うようにしたらいい」
「そういうと思っていたわ」
「俺はお前の本当の幸せを願っているんだ」
「私のため、私のため・・・まるで野の花のように愛されているのね私」
「どういうことだ」
「ううん、分かった。あなたの言うとおりにするわ。もう寝ましょう」
そう言って妻は一人でベッドに戻っていった。
その3日後、Mと出かけてきますと言って家を出た。
そしてその夜、妻は帰らなかった。
それから三月もしないうちに私達は法的にも離婚した。
妻はMのもとに帰った。
私はそう思うことで心の痛手から身を守ろうとしたのかもしれない。
妻の本当の幸せを願う。それが私の愛の形だと思い続けてきたのだ。
何度か再婚の話もあったが、私の心は動かなかった。いつの間にか10年という歳月が流れていた。妻と過ごした年月の何倍もの月日を無為の中で過ごしてきたともいえるだろう。

この重石がかすかにでも動いたのはA子の笑顔とおせっかいだと思った。
つい先日のことだ。
職場で手作りの弁当と一緒に一泊旅行のチケットを渡されたのだ。子供が喜ぶからと無邪気に拝むような仕草をして笑った。
あいまいに断ったつもりだったが結局チケットは私の手の中に残されたままになったのだ。
どうするか・・・
私は会社を退けてからも思い迷って家路についた。
習慣で電車に乗り、意識しないまま駅を出た。
夢遊病のように自転車に乗り、いつの間にか国道を横切る地下道に差し掛かった。
地下道に開く暗い入り口を見たとたん、私は雷に打たれたようなしびれを覚えた。
女物の靴が、まるでそこに人が立っているように置かれたままもう一月以上経っているのだ。
そんなバカなと思いながら、あれは自分にしか見えていないのではないのかという考えを払拭できずに日が重なり、いまやその靴のとりこになってしまっていると言わざるを得ない。
私は霊というようなものを信じないが、しかしそれでも、地下道の靴は私の意識から離れずますます強くなって、そこを通るたびに背筋の凍る思いを繰り返しているのだ。
A子のことで一杯の頭を、かみそりの刃のような切り口で一瞬のうちに切り裂くほどに靴の恐怖が大きくなっているのを認めない訳にはいかなかった。
私は出口を見据えたまま、ほとんど息もしないで自転車を走らせ一瞬で靴の前を通り抜けた。
無視しようとすればするほど意識が鮮明になり、いまやその靴が動き出すのではないかというバカバカしい思いに取り付かれて心の芯から怯えているというのが正直なところだった。
しかしそれを自分で認めることが出来ず、他の人に靴のことを尋ねることもしなかった。もし誰もそんなものは見えていないと分かったら、私は完全に悪霊の前に置き去りにされることになる、それが恐ろしかったのだ。
私は無神論者で、現実しか信じない人間だが、その心の底の方にはたった一足の靴に怯える自分がいることをもはや無視することが出来ない。
否、無神論者の方こそこの怯える自分が作り出した鎧のようなものだったのではなかったのか。そう思い至ると、芋蔓のように更なる思いがうまれて来た。
私の固執する愛の形もまたそうなのではないのかと・・・
私はずっと芹里奈を愛し続けてきたと思っていた。
芹里奈が一番幸せになること、それを願い続けるのが私の愛の形なのだと信じてきたのは、失うことで傷つくことを恐れた私の無垢な心が作り出した鎧だったのかも知れない。
私は結局、この10年を虚構の中で無為に過ごしてきたのだろうか。
事実はどうあれ、地下道の靴の前で体験する恐怖には、私の全身の細胞を一斉に目覚めさせ激しく生きようとして泡立つような実感がある。
そしてこの恐怖から必死で逃げようとする私がここにいるのだ。
私にとって芹里奈は本当のところ何だったのか、私とA子の間にある越えられない山・・・
無意識のうちに私は古いアルバムを取り出していた。カバーを抜いて扉を開けるとはらりと一通の封書が落ちた。
芹里奈からの最後の手紙だった。見なくてもその文面の一字一句を覚えている。
私はその封書を脇によけて、一枚ずつアルバムを開いてみた。
幸せだった日々の一瞬が切り取られて、芹里奈の笑顔がどの項にも踊っている。
未練だなと友人は笑ったが、私はどうしてもこれを処分することが出来なかった。
A子にこれを見せたら何というだろうか。
そう思うと心に暗い霧が広がってくる。
もうやめよう。芹里奈への思いに整理をつけようとアルバムを開いたが、心は複雑にゆれるばかりだ。私はアルバムを閉じるつもりで、もう一項だけめくってみた。
芹里奈が奇妙な格好で立っている写真が目に入った。
二人で海に行ったときのもので、とっさに私はそのときの記憶をよみがえらせた。
まぶしい太陽と白い砂、そしてどこまでも青い水平線。
写真に納まる芹里奈のおかしな格好は、そのときの背景を鮮烈に思い出させるのだ。
だがこのとき、私は別の意味でその写真に釘付けになった。
白亜の砂浜はとても清楚な印象を私達に与えた。
「もったいないわ」
芹里奈はそういって靴を脱ぎ素足になった。
私も同じようなことをした。足の裏でサラサラと白い砂が流れ、言いがたい開放感が私達を包んでいた。
突然芹里奈は私の名を呼び、カモメのポーズを取ったのだ。私はカメラを向け、芹里奈は何度もカモメの姿を演じた。
私の背筋に冷や汗を感じるほど驚いた写真はその時の1枚だったのだ。
カモメになった芹里奈が正面を向き、翼を広げている。その両手には脱いだばかりの靴が握られ、翼の先端をうまく表現しているのだった。
何気なくその靴に目を向けたとき、私は胸に大きな杭を打ち込まれたような衝撃を覚えた。その靴は、地下道に放置されている靴と驚くほど似ているのだ。
紛れもなくそれは芹里奈の靴だと思った。
アルバムを見直した。その頃の芹里奈の写真はどれも同じ靴を履いていた。しかもどこか誇らしげに・・・そう考えをたどっているうちに私は思い出した。
芹里奈が珍しくショーウィンドーの前で立ち止まった。マネキンの履いている靴に魅せられたというのだ。そんな芹里奈を見て私はとっさに店に入り、交渉してその靴を手に入れた。確か展示品だけで在庫はないと言うことだったのか、嫌がる店主を説得してマネキンから脱がせた靴は芹里奈にぴったりだった。ビニール製のさして高価なものではなく、展示品ということでさらに値引きさせた靴は芹里奈の足にきれいに納まった。店長の少々困った顔を思い出して私達は笑いあった。
結婚する年の夏のことだった。
こんなバカなことが・・・偶然で起こるものか。
凍りつくような思いで私は呆然とし、
そしてアルバムからカモメになった芹里奈の写真を剥ぎ取った。
私は芹里奈の写真を握ったまま国道の地下道に向って行った。
そんなバカな・・・
こんなことがどうして・・・
驚きと不安と恐れが胃の辺りでかき回され、血液が凍りついたように全身鳥肌立っている。
体がこわばり冷や汗にまみれたが、足だけは前に進んでいく。事実を確かめなければ納まらない気持ちが私を地下道に導かずにはおかなかったのだ。

深夜の国道は通過する自動車もまばらだった。地下道を歩く人などさらにいるはずはなかった。
生きているのは自分の他にはいないような錯覚を覚え、時々自動車の走行音が聞こえるとほっとする。しかしその音が遠のくと恐怖はさらに深さを加えるのだ。
それでも私は地下道に足を踏み入れた。
もし芹里奈なら、私はどうしても会わねばならない。
私は激しくそう自分に言い聞かせていた。
地下道の奥からヌメッとした霊気が漂ってくるように思われた。
私は迷わずその恐怖の中に入っていった。それはこれまでにない勇気だったと今も思う。
私は肝をつぶす思いでその中心に進んだ。
一足の靴が薄汚れ、滴る地下水に濡れながら私を出迎えた。
私の背後に得体の知れないものが立っている・・・ぞっとする思いに囚われたが振り返ることも出来ない。
私はあらためて芹里奈の写真とその靴を見比べた。
つま先にある花柄、それに葉っぱの形をした特殊なバックル、写真のものと一分の相違もない。これは芹里奈の靴に違いなかった。
花柄は薔薇を模したもので、カルメンを想起させるのだと芹里奈はあの時、魅せられた理由を話したことがある。
その靴を履いて芹里奈、お前はここにやってきてくれたのか。
私は靴の前に跪いた。
カモメになった写真の芹里奈が恐ろしいほど沈黙して動かない。
私はその写真を両手で持って靴の前に差し出した。
「芹里奈、お前なんだな」
言葉に出して叫んだのか、心の中だけの叫びなのか私には分からなかった。
私は手に持った写真を取り落として目の前の靴を凝視し、そしてそこから虚空に目を移した。
靴を履いた見えない芹里奈が私を見つめていた。
<シャ!ラーン・・・>
私の全身の恐怖が、芹里奈への思いに切り替わる音を心の中で聞いたような気がした。
「ありがとう来てくれて」
心の底のそこから搾り出すような声がうめき声のように喉をついて出た。
歌舞伎役者のように引きつらせた口元に、涙とよだれが合流してあごをつたった。
まさにそのときだった。自分にも信じられない言葉が私の口をついて出てきたのだ。
「すまなかった、許してくれ芹里奈」
予想もしなかった自分自身の言葉だったが、それと同時に私はその言葉の意味をも一瞬の内に理解していた。
10年前からその思考は私の中にありながら、今この時に初めて気付いたかのようだった。
私は芹里奈を恨んでいたのだ。
芹里奈が幸せになることだけを願ってきたとも言える私のこれまでの生は、自分を犠牲にすることで彼女を苦しめようとする、芹里奈への呪詛だったのだ。
そう気付いたとき芹里奈があの夜ベッドの上で泣いていた、あの涙は私のために流したものだったのだと思い至った。
そしてこの靴は、いまだに私への憐憫と罪悪感に苦しむ芹里奈を象徴していた。
「すまなかった・・・」
私は靴の前で深々と頭を下げた。
すると、涙に潤んだ目に芹里奈の靴がステップを踏んだように見えた。
カモメになった芹里奈が白亜の砂原で舞ったあのステップに違いなかった。
靴は軽妙に踊り始めた。
私の妄想なのかも知れなかった。しかし目の前の靴が踊りだすのを見て、私は不思議にもそれを当然のように受け止めた。
その靴の上にありありと芹里奈の姿を見ることが出来た。
そして、カモメのポーズをとった芹里奈が、あの時のように私に笑いかけたのだ。
「許してくれるのか・・芹里奈・・」
私は大きく両手を広げて芹里奈に向って胸を開けた。
熱い波動が体を貫いた。
心が溶鉱炉の鉄のように溶け出し、下方に流れ始めた。
熟れた塊が私の体を押し破るように共鳴して振動し始めると律動が全身に広がり、
私は恍惚の中で激しく放出した。
芹里奈の背後にある宇宙の大きな闇の中に、私のすべてを解放するような交合が今起こったのだ。
下半身がべっとり濡れていた。

目の前の靴は何事もなかったようにそこに置かれたまま静かに並んでいる。
にわかに芹里奈の声が聞こえてきた。 

「今度彼に誘われたの、どうしたらいい?」
それは芹里奈の辛そうな声だった。
二人の人生を分けてしまった、忘れようにも忘れられない言葉が悲哀をしみこませて私の中に棲みついている。

「今度彼に誘われたの、どうしたらいい?」
再び芹里奈の声が聞こえた。
行くな!行くなら俺を殺してから行け!私はそう言いたかった。
私を野の花のように愛しているのねと芹里奈は私をなじったが、私の欲望はその花を根こそぎ引き抜いて自分のものにしたかったのだ。

「今度彼に誘われたの、どうしたらいい?」
三度芹里奈の声が聞こえてきた。
「やめてくれ!」私は両手で耳を塞いだ。
すると芹里奈の声の調子が変わった。それはまるで母親が子供をあやすような甘くやさしい声だった。

「あなたが一番幸せになるところに行きなさい」

私はその言葉に少なからぬ衝撃を受けた。かつて私はこんなに優しく芹里奈に同じ言葉を投げかけはしなかった。地下水にぬれそぼる靴を目で追っていた。質素なデザインだが、つま先の花柄をカルメンの薔薇だと芹里奈は言った。私は彼女をカルメンのように好きなところに行かせたのだろうか・・・

「あなたが一番幸せになるところに行きなさい」

再び芹里奈は続けた。
私はそのとき初めて、芹里奈はA子のことを言っているのだと気付いたのだ。
私は目頭が熱くなり、鼻根に甘酸っぱいものを感じた。背筋には悪寒のようなものが走った。
「彼女に誘われたんだ。どうしたらいい?」
自分の頭の中でゆっくりと、A子を思いながらそう言葉をたどってみた。激しい感動の波が乱気流のように押し寄せて来た。それは私をもみくちゃにして電撃のようなショックが全身に伝わるのを覚えた。

「あなたが一番幸せになるところに行きなさい」

三度芹里奈の声がした。しかしその声は次第に先細ってやがてしじまの中に溶け込むように消えた。芹里奈・・・それを言うために私のところに来てくれたのか。
私がお前に言った何倍もの優しさで、いや恨みを持たぬ慈しみの声でこの私を救ってくれるというのか・・・
私は思わず芹里奈の靴を引き寄せ胸に抱きしめた。
ジワリと胸に湿り気が伝わってきた。
「芹里奈、お前は今幸せなのか」
私は確かにこのとき、自らの肉声を発していた。
その声が地下道に反響して、私は我に返ったのだ。
芹里奈の声はもう返ってこなかった。
私の心を確認して、今初めて芹里奈は私のもとから安心を携えて飛び立ち、自らの人生に帰っていったのだ。私はそう確信した。
芹里奈のカモメが自由という虚空の中に純白の羽を輝かせて飛び去っていくのを見たような気がした。
私は胸に抱いた靴のその薔薇の花にそっと口付けして、丁寧にもとの場所に並べて置いた。拾い上げた写真には幸せそのものの芹里奈が笑っていた。
「さようなら、芹里奈」
私は反響しないようにそっとささやきかけて地下道を出た。 

次の日会社に向うため地下道を通りかかったときだった。
何気なく国道の交差点を見渡したその視線に、市の清掃車の姿が映った。
それは一瞬で視界から消えたが、私は何が起こったのかすぐに了解した。
その直感にたがわず、通り抜けた地下道はきれいに清められて靴は跡形もなかった。
「ウオーッ」
私は人目もはばからず、こぶしを虚空に突き上げて叫んだ。
間違いなくあれは芹里奈だった。私のためにあの靴はあったのだ。
すべては偶然だったのかも知れない。靴が捨てられ、一月以上も放置されて今清掃されたこと。夫を失なったA子が幼子を抱えて社に糧を求めたこと。芹里奈、そしてM。すべてばらばらの偶然が私という領域の中で必然に変わっているのだ。
その必然の中心に私がいる。
ばらばらの偶然は、私の及ばないところで起こっている。この及ばないものを受け入れたとき偶然が必然に変わる。必然とは受け入れであり、私自身なのだ。
このすがすがしい朝の空気さえ私の必然だといえた。
今この瞬間、何の疑いも不安もなく私はA子を受け入れることが出来る。
生まれて初めて自分の及ばない偶然のつながりに感謝し、受け入れて自然に私は胸元で手を合わせた。
それを神と呼んでもかまわないと思うのだった。 

A子と私は弘樹を伴って、始めての旅行に出かけた。
海の見える景勝地を一泊の旅だったが、湾内をめぐる遊覧船と海底が見えるグラスボートを乗り継ぎ、弘樹は一日中興奮気味だった。
ホテルまでの2キロ足らずの道程を疲れ果てたのか、まだ?まだ?を繰り返した。
「よし、弘樹こい」
そう言って私は弘樹を自分の前で後ろ向きにし、持ち上げて肩に乗せた。
予想以上の重さに一歩踏み出す足をよろけさせたが、何とか格好はついたようだ。
「重くなったな、弘樹」
私は言葉でごまかしたつもりだったが、弘樹はらくチンらくチンと肩の上ではしゃぐ。
「お父さんが大変だから、降りなさい、弘樹」
A子はそう言ってから、私にごめんなさいと赤面したような声をかけた。
「お父さんでいいよな、弘樹」
私は大声で肩の上の弘樹に向かって言った。
「うん」
上の方から屈託のない弘樹の声がして、小さな二本の手が私の頭にしがみついてきた。
「それじゃ弘樹、お父さんと呼んでみろ」
私はもう一度大きな声で呼びかけた。
「お父さん」
ためらいのない弘樹の元気な声がした。
「お父さん」
A子が後ろから、弘樹のお尻にかぶりつくような格好で抱きついてきた。
くすぐったかったのか、弘樹は身をよじって笑いながら私の頭にしがみついた。
よろける私の軸足のまま、ゆれて3人は一塊になっていた。
その夜、私はホテルの部屋で正式に結婚を申し出た。
A子はいいんですかと問うたが、私の目を見てすぐにありがとうございますと応えた。
ほんのり頬を赤らめていたが、それは夕食のお酒のせいばかりとは言えなかっただろう。
遊びつかれた弘樹は食事中からこっくりし始め、布団に寝かしつけてから久しい。
私達は互いに引き合うように寄り添い、A子の肩に手を回した。そのときだった。
「あれ、弘樹!」
A子が素っ頓狂な声を出した。
A子の視線の先に弘樹が寝ぼけて立っており、首筋をポリポリかきながら備え付け金庫の前でパンツを下げていた。
「お父さんトイレ、トイレ」
私はとっさに立ち上がり、トイレはこっちだと言いながら弘樹を抱えてトイレに走った。
金庫の前からトイレまで、ヤカンで水をまきながら走ったような跡がついた。私はなぜかグランドの線引きを思い出して笑い出した。
A子もタオルで始末しながらつられて笑った。
弘樹はまだ寝ぼけていたが、A子にパンツを履き替えさせてもらうと安心して寝息を立て始めた。
私達家族の初夜はこうして更けていくのだった。

時には喧嘩もしながら、私達の生活は幸せなものだったと思う。
これから先のことはだれにも分からないが、一つだけ確かなことが私にはある。
それは私達に子供が生まれたということだ。女の子だった。
そしてそのことが、平穏で幸せな生活に唯一の険悪な事態を引き起こしたのだった。
すべての原因は私にあるのだが、子供にセリナと名づけた私に対して、まだ前妻に未練があるのかというA子の悲しげな非難からそれは始まったのだ。
彼女は私の顔を見るのを避けて俯き、二人の間に気まずい空気が付きまとって離れなかった。
そんなことはお構いなしに、生まれたばかりの子は元気に手足を振り上げて早くから笑顔を見せた。
A子のわだかまりはすぐにそんなセリナの無邪気な笑いにほだされたようだった。
3日もしないうちに、セリナは本当のセリナとなって皆の顔をほころばせるようになったのだ。
私の心はA子にさえ説明不可能なところにあった。
それはいわば私と神とをつなぐ窓のようなものとでも言えばいいだろうか。
正しく伝えたければ黙るしかない。
ともあれ、セリナの物語はこうして始まったのだ。

 

<終わり>